イリノイこぼれ話
夫と義母と息子のあいだで
今年の大統領選挙に、モルモン教徒のミット・ロムニー前マサチューセッツ知事が出馬しています。モルモン教と聞くと、ピクッと小耳をたててしまうのは、やはり私が今イリノイに住んでいるからでしょうか。
2004年4月、シカゴの市会議員や州の代表者、副知事たちがユタ州のソルトレークシティまで出かけていきました。162年前の1846年、イリノイ州知事トーマス・フォードが、モルモン教徒たちをイリノイから追放したことを謝罪するためです。
イリノイ西部、ミシシッピ河に面するクインシーやナウブー、ウオルサ、そして少し離れたカーセージにはモルモン史跡がたくさんあります。州から追い出された信者たちは、ブリガム・ヤングに率いられて、イリノイ西部から、さらに西へ西へと千三百マイルを旅し、現在のユタ州ソルトレークシティに安住の地を見い出しました。よく知られる歴史的事実です。
でも、あまり知られていないのは、イリノイから追い出されず、残った信者たちのことでしょう。シカゴ近郊にその史跡があります。
1844年6月27日、末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教会)の教祖ジョゼフ・スミスがカーセージで殺されると、後継者争いが起きて、教会は分裂しました。ブリガム・ヤングに従わなかった信者たちは、教祖の息子、ジョゼフ・スミス三世とともにイリノイに残りました。息子の後ろ楯になったのが、教祖の母、息子にしてみれば“おばあちゃん”のルーシー・マック・スミスと言われています。おお、なんという家族の葛藤!!父親が殺された時、わずか11歳だったスミス三世。“教祖の息子”という自らの運命に思いを馳せることはあったのでしょうか。
イリノイ北部、88号線の少し南、どこまでも広がる畑の真ん中に、アンボイという小さな村があります。1860年4月、ここで「復元・末日聖徒イエスキリスト教会」が作られました。父親の死後16年、成人した“教祖の息子”スミス三世の“新しい旅立ち”でもあったでしょう。
6年後の1866年、復元教会初の教会の建物が、シカゴの西、プラーノの町に建てられ、1881年まで教会の本部となりました。1990年に歴史的記念物に指定された教会は当時のままの立派なもので、今も使われているとか。現代の教会建物も隣接しています。
アンボイ村には、今も「モルモンロード」と名づけられた小道があります。行くと、道から少し高くなった見えにくい場所に、ひっそりと信者たちの墓地がありました。崩れかけた、地に沈みそうな古い墓石が、点々と残っています。墓地には何のマーカーもありません。近くに住んでいる人に聞くと、昔は石のマーカーが置いてあったけれど、壊されてしまったとのこと。人里離れた寂しいところであればあるほど、迫害されればされるほど、人々の信仰の強さが伝わってくるようです。
ところで、スミス三世の母親、つまりモルモン教会の教祖ジョセフ・スミスの第一妻、 エマさんですが、夫が殺されて3年が経った1847年に、非モルモン教徒のルイス・ビダモンと再婚しています。そして、義母ルーシーとともに、ナウブーに残りました。ルーシーは1856年に、エマさんは1879年にナウブーで亡くなっています。息子が作った復元教会の信者だったかどうかは定かではないとか。
父(夫)と祖母(義母)と母(妻)と息子―信者でない私が想うのは、ただただ“家族”という世界で一番むずかしいだろう人間関係でしょうか。教祖の妻だった自分、非信者の再婚相手、亡夫の義母の存在、そして父(夫)に立ち向かっていくかのように、新しく“教祖”となった息子。。。そのあいだで揺れただろうエマさんや、息子スミス三世の気持ちを想像しようにも。。信仰心のない私自身の限界に突き当たるばかりです。
1881年、スミス三世が、復元教会の本部をプラーノからアイオワ州南部のラモーニに移したのは母親の死後です。イリノイに残る家族の思い出を断ち切りたい、そんな思いもあったでしょうか。その後、スミス三世は、1914年に亡くなるまで教会長を務め、教会本部は1920年に、ミズーリ州インデペンデンス市に移り、今日に至っています。
ナウブーでは、エマさんの碑が、夫と義父母のそれと並んで、ミシシッピ河の川岸に建っています。家族間にどんな葛藤があったにせよ、母親エマさんの思いが、河の向こう岸、アイオワを想わぬ日はなかったのではないでしょうか。
イリノイの小さな村、アンボイで生まれた復元教会、Community of
Christ(日本語の正式名称: 復元イエスキリスト教会)は、教会のホームページによると、世界50ヶ国以上に信者をもち、その数25万人。1960年には日本にも伝えられ、東京と沖縄に礼拝施設があるそうです。