リンカーンの国から

(30)1858年夏―ディベート前哨戦

 

 

1858年春5月、リンカーンは有名な殺人事件の弁護を成功させた。月の光を利用して、州の有力証人が嘘をついていることを実証、殺人罪に問われていた友人の息子の無罪を勝ち取ったのである。

 

Text Box:   夏のはじめの6月16日、スプリングフィールドで開かれたイリノイ州共和党大会で、リンカーンは満場一致で、イリノイ共和党選出の連邦上院議員候補に選ばれる。対立候補はもちろん10年以上イリノイ選出の連邦上院議員の席を独占してきた民主党大物政治家、スティーブン・ダグラスである。

 

 ダグラスはリンカーンが対立候補に選ばれたことを知って、I shall have my hands full.  He is the strong man of the party-full of wit, facts and dates-and the best stump speaker, with his droll ways and dry jokes, in the West.  He is as honest as he is shrewd.  とコメントしたという。 "He is as honest as he is shrewd"−これだろう、リンカーンが曲者なのは。。

 

 初めて連邦上院議員候補に選ばれた時に、リンカーンが州議会で行ったのが、有名なHouse Divided スピーチである。閉会のスピーチで、ダグラスはその場にはいなかった。

  A house divided aginst itself cannot stand(聖書マルコ伝3の25からだそうで、"分かれたる家は立つこと能わず").  I believe this Government cannot endure, permanently half slave and half free. I do not expect the Union to be dissolved-I do not expect the house to fall- but I do expect it will cease to be divided.  It will become all one thing, or all the other."

 要するに、国を自由州と奴隷州に二分するわけにはいかない、国は一つでなければならない、と訴えたわけである。イリノイ州では、1848年憲法で奴隷制は禁止したが、同時に、自由黒人の移入も禁止、自由黒人には参政権も民兵になる権利も否定していた。1853年には、イリノイ州議会は自由黒人を州に連れてくるのすら犯罪とした。自由州といっても、黒人が「自由」なのではなく、むしろ白Text Box:  人が黒人の存在から「自由」になれるという意味だったのではあるまいか。

 

リンカーンは、有名なHouse Divided スピーチの中で、ダグラスが奔走し成立させたカンサス・ネブラスカ法をcare not policy だと批判、Why even a Senator's(ダグラスのこと) individual opinion withheld, till after the Presidential election? と追及、ダグラスさんがその場にいないとなると、「ダグラスはすごい人だ、我々は彼の前に立つと小さくなってしまう」といったんはもちあげておきながら、But a living dog is better than a dead lion . Judge Douglas, if not a dead lion for this work is at least caged and toothless one.  How can he oppose the advances of slavery?  He don't care anything about it.  His avowed mission is impressing the "public heart" to care nothing about it.  と、ダグラスさんを「死んだライオン」呼ばわりし、死んだライオンより生きてる犬のほうがいい、とまで言ってのけるとなると、リンカーンさん、かなり口が悪かったね。。(笑)

 

要するに、このスピーチでリンカーンは、ダグラスやテイニー主席最高裁判事、民主党大統領フランクリン・ピアースとジェームズ・ブキャナンは、奴隷制を国有化しようと策略を練っているとほのめかしたのだった。

 

 口の悪さのおかげで、スピーチ全文はかなり装飾の多い語り口である。読んでいるとうっとうしくなってくる。早く、言いたいことだけ分かりやすく言えばいいのに、ぐだぐだ、何言ってるねん、と腹さえ立ってきた。要するに、装飾の多い分だけ英語がよくわからなくなるのである。これを、引用の多い知的なスピーチと呼ぶのかどうか私にはわからないが、とにかくひねくりまわしたり、隠喩が多そうな語り口で、英語の分からぬ素人には「ああ、うるさい野郎だな」って感じである。(笑)

 

 どうやらこのころからリンカーンは、ダグラスの知名度を自分のために使おうと、ダグラスにディベート合戦を申し込むことを考えていたらしい。リンカーンは、ダグラスが、カンサス準州が採択した憲法をめぐって、民主党ブキャナン政権と戦っているのを知っていた。南部はダグラスと距離をおこうとしていた。ダグラスが南部から支持が得られないらしいとなると、今度は、東部共和党に新しく影響力を及ぼしてくるのは避けねばならなかった。それで、リンカーンの戦略としては、民主党が無関心のままの奴隷制の道徳的な性格を強調して、共和党と民主党の違いを際だたせることだった。

 

このあとの6月26日、リンカーンは再び州下院で、ドレッド・スコット判決に反対する演説をした。「すべての人間は生まれながらにして平等である」というアメリカ独立宣言の理念は、奴隷にも適用されるべきであり、起草者のトマス・ジェファーソンも、将来的にはそう考えていたとリンカーンは論じたが、それは少数派の立場だった。それでもリンカーンは、州は奴隷制を禁止する権限をもたない、奴隷制を禁止する州法は違憲であるというドレッド・スコットの判決は、白人は全国どこででも奴隷を所有することを可能にし、かつ一つのエスニックグループが憲法上の保証から除外されるなら、他のグループも同じく除外されてしまう可能性が出てくると考え、あくまで自分の立場を主張したのである。

 

 これに対してダグラスは、1858年7月9日金曜日の夜、シカゴでのレセプションで、非常にわかりやすい、まっすぐポイントを突く演説をしている。言葉が簡潔で力強さがあって、読んでいて気持ちがいい。リンカーンは、どうやら壇上にいて、ダグラスの後ろでこの演説を聞いていたらしい。

でも、ダグラスさん、あなたの演説は確かにわかりやすいけど、なぜあなたが負けたかわかりましたよ。なにやらダグラスさんって、現代の白人至上主義者みたいじゃないですか。要するに、ク・クラックス・クランみたいなのである。

 

 ダグラスの論点の一つは、現代の多文化尊重主義のようで、要するに、州のことは州の住民が決め、州独自の多様性を尊重するべきであり、連邦は介入すべきではない、というもの、2つ目は、三権分立で成立している我々の社会で、司法の頂点である連邦最高裁が決定したことに、リンカーンみたいにぐちゃぐちゃいちゃもんをつけるべきではない、というもの、そして3つめが、アメリカは白人によって、白人のために、白人が作る社会だと広言しているのである。で、この3つ目の論点と1つ目の論点を組み合わせると、彼曰く、「私は、白人より劣っているインディアンや黒人が享受するべき権利や特権を持つことを否定するつもりはない、しかし、どんな権利や特権を持っているかを決定するのは州次第である。イリノイでは黒人は奴隷にはならないが、選挙権はなく陪審員にもなれない、メーンでは黒人は白人と同じ選挙権をもっている、ニューヨークでは250ドルの財産があれば、要するに金持ちの黒人は選挙できる、といろいろ州によって違っているではないか。でも、そのことをイリノイの人間は文句言えないよ。」という論理になる。う〜〜〜ん、さすが頭がいいなあ。。。(笑) で、イリノイの選挙民を意識してか、自分は、黒人の平等は認めない、混血を認めない、劣等人種との雑婚・混血は、住民自治で政治をとりおこなっていくには、degeneration, demoralization, degradationになるとしつこく強調しているのである。

う〜〜ん、やっぱりこのあたりが、ぼっちゃん育ちのエリートと丸太小屋育ちとの違いかな。。。エリートが牛耳る社会を支えている無数の無名・無力の人間たちを見る眼が違うような気がするのである。

 

このあと、夏の終わりから、ダグラスとリンカーンの有名なディベート合戦がイリノイ各地で繰り広げられる。リンカーンがいよいよ全米に知られていくText Box:  ディベートである。

                                                                    

 

 

 

 

 

昔の新聞を調べていると、ダグラスにリンカーンがディベートを申し込み、ダグラスが条件を提示、その手紙の返事にリンカーンが書いた手紙が掲載されているのを見つけた。1915年2月12日(リンカーンの誕生日である)付「シカゴ・デイリーニュース」である。リンカーンさん、汚い字ですねえ。。(笑) 曰く、「Springfield, July 31, 1858      Honor. S. A. Douglas   Dear Sir, Yours of yesterday, naming places, times and terms, for joint discussion between us, was received this morning.  Although, by the terms, as you propose, you take four openings and closes to my three, I accede, and thus close the arrangements. I direct this to you at Hillsboro and shall try to have both your letter and this appear in the journal and register of Monday morning-Your obedient Servant  A. Lincoln

Your obedient Servant  か。。。勝つためには、まず自分がひいて、相手の出方を見るって感じだろうか。

 

第1回のディベートは、1858年8月21日イリノイ北部オタワにて、である。