「リンカーンの国から」
(18) ラーナにて: 家族
1840年代にはいって、リンカーンがスプリングフィールドで、女性問題やら決闘騒ぎ、鬱病に婚約破棄、そして結婚と人生のいろいろな起伏を経験していたころ、リンカーンの家族はどうしていたのだろうか。リンカーンの結婚式に出席するために、スプリングフィールドまでやってきたのだろうか。答えはノーだ。名家のお嬢様メアリ・トッドは、家族の反対を押し切って、貧乏で粗野なリンカーンと結婚、まるで「できちゃった婚」でもあるかのように、メアリの親戚の家で、突然それも密やかに内内に式をあげたのだった。社会的成功への階段を着実に上りはじめた息子を、リンカーンの親たちはどんな思いで見ていたのだろうか。
イリノイ中部と南部の境界線あたり、広大かつ平坦な農地のあいだの道を行く。リンカーン・ヘリテージ・トレールと名づけられた道だ。人口二万人の小さな大学町、チャールストンからほんの少し南へ走ると、ラーナという村がある。村といっても集落があるわけでもない。農家が点在しているだけの風景の中で、サイロー墓地はすぐに見つかった。細い道沿いにあった。リンカーンの父親、トーマス・リンカーンが埋められている所だ。
オリジナルっぽい白いオベリスクは、ペンキがはげかかったようになり、下から灰色の石が顔をのぞかせている。彫られた文字も消えかけている。「トーマス・リンカーン 殉教した大統領の父 1778年1月6日生まれ 1851年1月15日死亡」父親は、息子が大統領になったことを知らずに死んだ。オベリスクは、死後かなりの時間が経ってから建てられたに違いない。
1830年から31年のイリノイのひどい冬に失望したトーマスは、1831年の春、インディアナに引き返そうとした。リンカーンが従兄弟たちとニューセーラムに向かったときだ。その途中、中部ディケーターから南東65マイルほどのところにあるコールズ郡に立ち寄った。何かが気に入ったのだろう。もう一度だけイリノイに賭けることにしたのである。いくつかの農場で働いたあと、1840年、グースン・ネスト・プレーリーファームを購入した。今日、そのファームが、リンカーン・ログキャビン歴史的場所として州によって管理されている。
ログハウスが再現されていた。南部人だったトーマスはログハウスを好んだ。グースン・ネスト・プレーリーの家はケンタッキーでよく見かける、部屋2つのサドルバッグスタイルだった。実際は2つのログキャビンだが、2つが非常にくっつけてつくられている。
キャビンの隣には石で野菜干し場が作られ、回りには焚き火跡や、木材が点在、荷車に鍬が並んでいる。猫や鶏、黒や白い荷馬たちがあちこちでうろうろしていた。家畜小屋にはかわいい子牛も2頭いた。のんびりと、何も思いわずらうことのないような風情である。自給自足の幸せな生活に思われる。が、それは便利な現代の時間をしょった都会人間のセンチメンタリズムにすぎなかろう。
当時すでに60の声を聞いていたトーマスはずっと働きつづけてきた。1841年頃にはイリノイに120エーカーの土地を所有していたが、生活はまだまだ困難で、出身のケンタッキー時代より生活がよくなったというわけでは決してなかった。グースン・ネスト・プレーリーファームのキャビンには、1845年には、18人もの家族が住んでいた。トーマスと妻サラ以外に、サラの連れ息子、ジョン・ジョンストンとその妻メアリ、彼らの6人の子供たち、サラの連れ娘マチルダ、それにその夫のスカイア・ホール、そして彼らの6人の子供たちである。リンカーンの義理の妹にあたるマチルダの家族は、のちにファームより1マイルほど南に農場を買って移っていったものの、トーマスにしてみれば養わねばならない口は多く、生活は大変だった。とうもろこしやオーツ、小麦を作り、豚に羊、乳牛、にわとりやギースを飼っていた。豚肉にじゃがいも、コーンブレッドを食べて、ときどき狩の獲物や果樹園の果物、野菜を食べた。
ファームを買って1年もたたずして、トーマスは息子のリンカーンに土地の3分の1を売らねばならなくなった。1848年には、残りの土地を売らねばならなくなるのを避けようと、リンカーンに20ドルの金の無心もしている。
スプリングフィールドで弁護士として活躍していたリンカーンは、家族を訪ねてこのファームによく来たのだろうか。近くのチャールストンで仕事があったときは、コールズ郡をしばしば訪れたが、このグースン・ネストまで足を運ぶことは稀だったようだ。車でわずか10分ほどの距離なのに、である。1865年にインタビューに答えた77歳の義母のサラは、義理の息子が自立してからは、毎年1回か2年に一度ほど会うだけだったと答えている。1850年代にはいって、いよいよトーマスの死が近くなると、リンカーンの義理の兄弟、ジョン・ジョンストンがリンカーンに手紙を書き、父親がよくならないことを告げたが、リンカーンはなかなか返事を書こうとはしなかった。1851年1月になってやっと返事を書いたものの、別に手紙を書いても「病気がよくなるわけではないから」とジョンストンに言い訳している。そして、父親に次のように伝えてくれ、とも。To remember to call
upon, and confide in, our great, and good, and merciful Maker: who will not
turn away from him in any extremity"
要するに、流れにまかせたら、と父親をうっちゃったのである。結局リンカーンは10年近く父親に会わぬまま、死にかけている父親を見舞うことも葬式に来ることもなく、父親と永遠に別離した。もちろん自分の妻メアリや息子たちを父親に見せることもなかった。それでも、1861年1月、大統領に選出されたあとで最後に一度戻った。列車に乗り遅れた次期大統領は、貨物列車の乗務員車に乗って、途中までやってき、チャールストンの弁護士仲間のところに泊まった。翌日、義理の妹マチルダのところにいき、そこに滞在していた義母と会った。この時、義母とともに父親の墓も訪れている。最初で最後だった。
大統領就任まで1ケ月たらず、すでに6つの州が連邦から離脱しており、さらに離脱州が増えることも予想できていた時期だった。夕食のあと、義母はリンカーンに別れを告げた。「お前が何かをなしとげるだろうとずっと知ってたよ」が最後の言葉となったとか。
リンカーンはその夜、チャールストンに戻り、次の日、スプリングフィールド行きの列車に乗った。その時のことをサラは、4年と2ケ月後、リンカーンが死んだことを告げられた時に、私は、義理の息子に大統領選に出てほしくなかったし、選ばれてほしくもなかった、大統領に選ばれてから私に会いに来たとき、これが最後になる、もう2度と会えないと私の心が言っていた、と答えている。
メアリは、リンカーンの義母に服を送ったりしていたが、リンカーンの死後も、娘としての役割を果たそうと、いろいろと義母には尽くしていたとか。義母サラは、1869年4月10日、81歳でグースン・ネストで死んだ。そして、トーマスの横に埋められた。
今、トーマスのオベリスクとは別に、立派な大理石のメモリアルが建っている。トーマスとサラ(1788−1869)の名前が並び、その下に次のように刻まれている。「彼らの質素だが意義深い家庭が、世界にアブラハム・リンカーンをもたらした」
ふんだあ、とあまのじゃくの私はつぶやく。家を出ていった息子は、そのあとほとんど親の家には近づかなかったんでしょ。親に、自分の家族を、孫を見せようともしなかったんでしょ。それって現代風に言えば、家庭崩壊にも似たものがあったんじゃないの。リンカーンが大統領まで上りつめたのは、自分を育てた親や世界への必死の抵抗のエネルギーだったんじゃないの。必死の抵抗と否定が大統領になるエネルギーにまで転化したのは、リンカーンが特別頭がよく、運がついていたからだっただろうし、そのエネルギーはまた、リンカーンの鬱の黒々とした底なしのマイナスのエネルギーでもあったように私には思えるのだ。
1851年のトーマスの死とともに、農場の所有は義母サラの孫となるジョン・ホールに移った。彼は、キャビンが1893年に開かれたコロンビア博覧会に展示するためにシカゴに移されるまで、そのキャビンに住んでいた。博覧会終了後、キャビンは博覧会の倉庫に保管されたが、そのままいつのまにやら消えてなくなった。
リンカーンの4人目の息子は、リンカーンが心底嫌った父親にちなんで名づけられている。トーマス(1853−1871)である。妻メアリが必死で義理の娘としての責任を果たそうとしたその努力の結果らしい。