サンフランシスコのバスの中。大学院で勉強しているという日本女性が、少し驚いたようにこう言った。
「へえ、やっぱり人種差別って、本当にあるんですか」
アメリカに住みながら、アメリカ「社会」から遠く離れてしまった日本女性たちー彼女たちのアイデンティティーは時に、何気ない言葉の端々に浮かんでいる。
合法的就労が可能になる永住権が、先着順や抽選で日本人に与えられることもあってか、最近、単身アメリカで生活しようとする日本女性の姿が目立ちはじめた。
アメリカに残ることを決めた彼女たちが、「やっぱりアメリカがいい。自由だもの」と微笑むとき、私は一瞬だが、強い嫌悪感を覚えることが多い。それは彼女たちが、ただアメリカにいるというだけで、日本語の「自由」に混在する二つの意味、すなわち中国語伝来の「気まま、自分の好き勝手に」という意味と、西欧語から輸入翻訳された意味とをすり替えている、そんな無意識の偽善を感じてしまうからだ。
言い換えれば、彼女たちは、日本の経済繁栄により日本を離れる「気まま」を選ぶ自由は与えられたものの、日本での主流意識をアメリカに持ち込み、自分を含めたアジア系への人種差別が見えない。いや、見えてもそれを「日本へのやっかみ」と日本の経済力に依存するアイデンティティーを持ち、「自由」の名で自分の人生の可能性をオープンにしておくだけだ。
しかし、それではアメリカの「自由」とはいえない。アメリカ社会の「自由」は、社会的存在として自分が何者かを強く認識したうえで、自分の方向性を決定、社会への深いコミットメントを要求する。それは「日本人」という集団の一員としてではなく、社会と有機的に結びついた個人として、自分がよって立つアイデンティティーの発見と深くかかわりあっている。
その意味で、アメリカでネットワークを広げようとしている日本人レズビアンたちとの出会いは新鮮だった。彼女たちは数こそ少ないが、「レズビアン」というアイデンティティーに自分をかけ、社会的弱者として、ほかの同性愛者たちと、人種を超え、太平洋を越えた連帯を築こうとしている。
大阪出身のA子さん(31)は、アメリカで自然に、しかしはっきりと自分をレズビアンと位置づけた。「日本では、女性が好きという傾向に気づいても、絶対意識しようとしないでしょうね」と話す。
現在A子さんは、新聞編集の仕事をしながら、レズビアン会議に出席したり、日本から同性愛者差別裁判を闘うメンバーが訪れると、裁判支援のラジオ番組制作のため、通訳、翻訳、編集に携わっている。「レズビアンであることが自然な私。これからも隠さずに友人の輪を広げていきたい。“日本人”にこだわっていられないですよ」と彼女は語る。
アジア系という少数派の中の、そのまた少数派である彼女たちに悩みは多い。日本の家族との関係や結婚問題、経済的自立。そして、パートナーの女性との力関係は、性差別を超えた関係だけに人種が大きく物を言うという。
女性、アジア系、言葉にハンディがある新移民、そして同性愛者と、社会から幾重もの差別を受けながらも、アメリカで「自分」を見つめ育てていく彼女たちの「自由」に、私は深い感動を覚えている。