たった一人でも ー 強く生きる感受性と連帯感を求めて

 

 

ある小さな町で開かれた、自主映画の上映会でのことだった。

ステージ上の司会者が、急に私の方を向いたかと思うと、突然100人以上の聴衆に向かって私を紹介した。

「ここに、日本からのゲストもいらっしゃっています。タカコさんです。どうぞ立ってください。」

一番前に座っていた私は、一瞬ぎょっとしたが、おもむろに立ち上がって、聴衆の方にくるりと振り向くと、口が勝手に自己紹介を始めていた。誰一人知らない場所で、何も考えずにぺらぺらとへたな英語を並べた自分の度胸に我ながら感心した。

 

何がその時の私を駆り立てていたか。連帯感だった。そして自分に宿っているこの連帯への熱い思いこそ、集団への帰属を押し付けられる日本では考えられなかったような、新しい自分の発見でもあった。

 

アメリカは厳しい社会である。在米12年目にして初めて聞き、あらためて「なるほど」と納得、これまで胸の中に淀んでいたわだかまりがすっと消える思いがした言葉がある。

You are always welcome.  But I don’t need to like you.

 

いつでも来てください、でも私があなたのことを好きになるとは限りませんーカラーに染まらないはみ出し者は、「自然に」はじき出される一方で、グループに属している限りは「家族」の一員として安定感が得られる集団主義社会に育った者には、なんと冷酷に響く言葉だろう。

 

しかし、裏返して考えてみると、それは、来る者は拒まずのオープンさ、もしくは拒めないという寛容さと社会的ルール、そして、人はみんな違うのだから、自分の気に入る人ばかり集まるわけではないという、人間性と人間社会の厳然とした事実を正直に表明したにすぎない。

 

アメリカの良さは、人を傷つけるほどまで正直に、人間をまっすぐに見つめ、受け止めていること、そしてそれゆえ人はみんな孤独だが、だからこそその孤独から抜け出すために、どうやったら自分は人とつながっていけるだろうか、社会に働きかけていけるだろうかと真剣に模索していることではないだろうか。

 

他人の目を気にせずに、たった一人でも立ち上がり、社会に呼びかければ、必ずたった一人でも反応し、呼びかけに応えてくれるーそれぞれ全く異なる人間同士を結びつけていくのは、自分をありのままに表現できる感受性であり、一人の人間の揺ぎない信念でもある。

 

他人との連帯感を求めながら、しかし一方で、「たった一人でも」と自分を奮い起こし、自分の意見をアメリカ人にぶつける時、私は、戦前の日本で教育を受けた日系人から教わった言葉を、胸の中で何度も繰り返す。

「ふ仰天地に愧じず」

誰に対しても、少しも恥じることがない、心中、何もやましいことはないー

 

たった一人でも生きていかねばならない厳しいアメリカだからこそ、堂々と自分の信念をぶつけることで人とつながっていける人間の温かみを教えてくれるアメリカが好きである。