リンカーンの国から
(53)南北戦争開始―ロバート・リー将軍
あれは小学校5年生ぐらいだった、初めて「風とともに去りぬ」を読んだのは。その中に、主人公スカーレット・オハラが、自分が好きなアシュレーという男の屋敷であったパーティで、チャールストンで戦争が始まったというニュースを聞くシーンがあった。パーティに出席していた男たちは「やったあ」と大喜びし、その光景に、「バカな男たち」とスカーレットがぶつぶつ言う記述を覚えている。南部は戦争がしたかったらしい。つまり独立したかったのである。
1861年4月1日、リンカーンが送った隊がチャールストンに向けてニューヨークを出たとき、リンカーンが知らなかったのは、すでに南部側は戦争開始を決意していたことだった。4月10日、砦の南軍は北軍に降伏を要求したが、北軍は拒否。4月12日朝4時半、南部軍発砲、戦争開始である。
33時間後、物資もなくなり、疲れきった砦の北軍兵士たちは、4月13日降伏。このニュースにリンカーンはすぐに、北部州に、これからの3ケ月間に75000人の州兵を出し、ワシントンを守るよう指示した。4月15日、バージニア、北カロライナ、アーカーンソー、テネシー州は拒否、ケンタッキーとミズーリでは連邦派と分離派が拮抗、州兵は送らないという中立を宣言した。う〜〜ん、リンカーンは何を思っただろう。それでも兵を送らないと拒否したバージニア州のロバート・リー将軍に、連邦軍の陸軍の指揮を命じた。が、その2日後の4月17日にバージニアは、連邦を離脱。将軍は離脱を批判し、奴隷制はいつか廃止されるだろうと信じていた。二人の従兄弟は独立宣言に署名したし、父親は独立戦争のヒーローだったしで、将軍の連邦に対する忠誠心は強かった。が、1600年代から一族が住んできた、生まれ故郷のバージニアへの愛着には、忠誠心といった言葉では表現できない、より一層の強い感傷があったのだろう。200年以上にわたる記憶ーつまり親戚や家族を敵にするわけにはいかないと考えたリー将軍は、4月20日、リンカーンの命令を拒否してアメリカ陸軍を退役、4月22日にバージニア軍の指揮官の職を受諾した。「バージニアが私の国だ」というリー将軍の心境はいかに。。。リーダーになれる度量がなくてよかった。。(笑) それにしても、故郷への愛着と忠誠心をもつ国のはざまでの呻吟は、どこか日系帰米二世ノーノーボーイに通じるものがあるかも知れない。いつの世も、戦争はただただ、人の気持ちを無慈悲に白か黒かに引き裂いてしまうだけだ。
北部からの州の離脱は続いていた。アーカンソー州5月6日、テネシー州は5月7日、ノースカロライナ州5月20日で、南部連合は合計11州となり、首都は、ワシントンからわずか160キロ南のバージニアの州都リッチモンドにあった。
バージニアが連邦から離脱すると、リンカーンは、ワシントンにいた北軍に、ポトマック川を渡って、バージニア北部に入り、アレキサンドリアとアーリントンの町を占拠するよう命令していた。1861年5月20日、北軍が最初に占拠した建物は、アーリントンにあったリー将軍の邸宅、アーリントンハウスである。邸宅とその周りの1100エーカーものプランテーションは、ジョージ・ワシントン大統領夫人マーサの曾孫にあたる妻メアリが、親から相続した財産である。将軍とメアリは1831年にこの邸宅で結婚し、7人の子供を育て、奴隷に囲まれた恵まれた生活を過ごした場所である。4月22日に屋敷を去ったあと、リー将軍がこの家に戻ってくることは二度となかった。北軍は、二度とリー将軍がここに戻ってこないようにと、戦死者を庭に埋めた。1864年6月、リー夫人が不動産税を払えなくなると、北軍の戦争省は正式に邸宅を没収、その周りの200エーカーの土地を軍の墓地とした。それが今日のアーリントン墓地である。
この作戦では、リンカーンが昔法律を教えたことがあるエルマー・エルスウォースが、命を落とした。アレキサンドリアのホテルの屋根に上り、南軍の旗をとろうとして、撃たれたのである。リンカーンはニュースを聞いて泣き、ホワイトハウスで葬儀を行ったとか。泣きながら、戦争の指揮をとるのである。ああ、大統領でなくてよかった。。(笑)