リンカーンの国から
(54) 南北戦争―1861年
1861年4月12日に始まった南北戦争。北軍は、90日以内で勝利を収めて、戦争は簡単に終わるだろうとたかをくくっていたが、なんとそれから4年も続いた。戦いそのもののプロセスに、私はほとんど興味がない。つまり、誰の指揮のもとに、いつどこでどういう作戦が行われて、その作戦は成功したか失敗したか、といったことだ。そういう戦争の記述は専門家に任せて、私はそれ以外の小さな事柄に目を向けよう。(笑)
国土の一部で、大勢の若い男たちが殺し合いをしている一方で、リンカーンが、妻メアリと、息子ロバート17歳、ウィリアム10歳、トーマス7歳とともに始めたホワイトハウス生活で、一体何が起きたのか。週刊誌の立ち読み根性である。(笑)でも、思うのである、戦争ってそんなものじゃないのか、と。ベトナムからのボートピープルで、いったん日本にやってきて、その後、ノルウエーを永住の地に選んだ人に話を聞いたことがある。そのときも、その人が「戦場は知らない」と言ったとき、私は思わず首をかしげてしまった。ベトナム戦争を写真で見ている限り、まるで国土のあらゆる地でベトコンが爆弾をしかけ、アメリカ軍の空爆があって、ベトナム全土が、猛烈な火の手があがっている戦場になったように想像するが、実際はそうではないのである。「私が住んでたところは平和だった」と、その人は言った。それでも、彼はベトナムから脱出した。戦争とは、報道される戦場の現場と人々の日常のはざまで非常に不可解なものがある、一種の「非日常」ではないか。「非日常」をあたかも「日常」と錯覚し、戦争をしている「つもり」なのは、エゴにまみれた国家という抽象観念の化け物を「指導」しているつもりの人間の頭の中だけではないか。指導者だって、ほんとは戦場を知らない。そして、ほんとうに戦争を現実として知っているのは、ただただ実際に不運にも戦場に遭遇し、身体に"生と死の境界線"を刻み込んだ生身の人間だけである。太平洋戦争も、イラク戦争も、そして南北戦争もそうではなかったか。
戦争が始まって2週間後の4月27日、リンカーンは、ワシントンとフィラデルフィアのあいだで、人身保護令を一時停止した。スパイやら裏切り者が横行していたため、北軍が移動する時に、被疑者を自由に拘束することが必要だったからである。5月10日はフロリダで、7月2日にはニューヨークとワシントンのあいだで、一時停止された。もともと人身保護令は、被疑者を不当な拘束から守るための法であり、憲法に定められた自由権の一つである。でもそれをいったん停止するとは、人権の制限が一部の人間に許されたということであり、何でもあり、ということだろう。それが戦争ということか。それはまた「合衆国の陸海軍、ならびに合衆国の現役に召集された各州の民兵の最高司令官をつとめる」(憲法第二条第二節第一項)アメリカ大統領の権限でもある。すごいなあ、やっぱり。一日ぐらい大統領になりたいかも(笑)
さらにリンカーンは、議会の合意を得ることなく、軍の規模を拡大していく"法律違反"も平気でやってのけた。こういった権限の逸脱にも思える行為を、1857年に「ドレッド・スコット判決」を出して、国を分裂させるきっかけを作ったテイニー最高裁判事は批判したが、リンカーンは動じることなく、議会で説明して乗り切った。つまり、リンカーンはどんな手段を使ってでも、この戦争に勝って、国を守らねば、と固い決意をしていたことになる。ふ〜〜ん、なんでアメリカ人がリンカーンをあがめるのか、やっと少し理解できるような気がしてきた。。(笑)
リンカーンの長年の政敵、民主党のスティーブン・ダグラスは各地を回り、リンカーン支持をよびかけた。4月25日に、ダグラスがイリノイ議会で行った"Preserve
the Flag'の呼びかけは、イリノイを団結させ、多くの人が北軍に参加した。が、過労がたたったのだろうか、6月3日、シカゴで突然亡くなる。リンカーンは、独身時代から付き合いのあった政敵の死に、1ケ月の喪に服することを指示している。
7月21日、北軍はバージニア北部で敗退、戦争が長期戦になることが判明。となると、いよいよもっと具体的かつ効果的な戦略を練らねばならない。そこで顔をのぞかせたのが、奴隷問題である。奴隷問題は、戦争に勝つためのツールにすぎない。
リンカーンの時代には、アフリカ生まれの奴隷はほとんどいず、奴隷はすべてアメリカ生まれ、つまりアメリカ人だった。その奴隷というアメリカ人を、リンカーンは、大統領になったときは、解放しようなどとはつゆとも考えていなかった。むしろ非常に微妙な綱渡りをやって、これまでをしのいできた。
15の奴隷州のうち、デラウェア、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリの4州は、北部にとどまっているので、奴隷解放を戦争目的に掲げると、この4州が即刻分離、南部に流れる危険性があった。その一方、共和党過激派の中には、奴隷解放を戦争目的に掲げ、南部の奴隷を即刻解放、南部とその社会を改編しようと意図する者もいた。それで、あんまり奴隷問題を無視していると、北部の支持を失う危険性もあった。戦争前には、数万人の奴隷が自由を求めて、南部から北部に逃亡していたが、戦争が始まると、報奨金目当てに、奴隷を南部に送り返したり、北軍で強制的に働かせる北部人も出てきたのである。となると、リンカーンも、いよいよ奴隷問題をないがしろにはできなくなっていた。が、それでも、北軍の将軍の中には、自分の部下が奴隷解放の手段となることを拒否する者もいたので(要するに、奴隷を助けるために、自分の部下を殺すのはいやだ、といったところだろうか)、一応リンカーンと議会は、表向きには、戦争目的は国家の分裂を防ぐとする、で一致していた。が、その一方で、戦争が長期戦になると予測できるようになると、なんとかして南軍の力をそぐ必要が出てきた。
南軍は、奴隷たちを、料理や労働、御者、そして兵隊に使って人手不足を解消、北軍に勝るマンパワーを確保していた。となると、敵の力をそぐ常套手段は、"内輪もめ"による攪乱作戦である。8月6日、議会は、南軍に実際に従軍している奴隷を北軍が捕えた場合は、解放するとする「押収条例」(Confiscation
Act)を通過させた。「押収」ですか。やっぱり、北軍にとっても、奴隷は「物」だったんでしょうね。北軍が南部で見つけた「戦時禁制品」は、ワシントンに連れてこられ、「難民キャンプ」で過ごすことになった。これって、解放宣言の前に、「奴隷解放」が少しずつ、確実に始まっていたということである。やっぱり「奴隷解放」は、単なる政治的ツールだったんだあ。
8月16日、反乱軍つまり南軍との接触禁止。10月21日、1850年2月1日に3歳で死んだ次男にその名前をとった古い友人、エドワード・ベイカー死亡、リンカーンもメアリも嘆き悲しんだとか。
11月24日、トレント事件発生。アメリカの外には一度も出たことのないリンカーンが、この事件の処理のがうまさで、諸外国から尊敬されるようになった、と言われる事件である。
アメリカ国内で起きた南北戦争といえども、国際関係からは逃れられなかった。というのも、南部は、ヨーロッパとりわけイギリスと綿花貿易を行っていたからである。イギリスは南部の綿花を買ってくれるいいお得意さんだった。南部がヨーロッパと強い経済的つながりをもっていたのに対し、北部はヨーロッパからの輸入品に高い関税をかけて、国内産業を保護していたので、どちらかといえば、北部はヨーロッパとは敵対関係にあった。だから、ヨーロッパが南北戦争に介入するとなると、南部を支持するのではないか。そうなると、ますます戦争が泥沼化することになる。1812年戦争でアメリカに負けた英国には、北軍の負けを望む声もあったし、フランスなどは、南部は自分たちと同じ貴族社会だと考えていたから親近感があった。ただ一つ、ヨーロッパが容認できなかったのが、南部の奴隷制だった。といっても、この時期は、まだリンカーンが、戦争目的は、国の分裂を防ぐためであり、奴隷制廃止ではないと明言していたので、ヨーロッパが南部の支援に回ることは考えられた。それに気づいた国務長官のウィリアム・スワードはヨーロッパ各国に手紙を書いて、南北戦争にはかかわってくれるな、と防線を張った。
リンカーン自身は、戦争が始まった1週間後の4月19日には、サウスカロライナ、ジョージア、アラバマ、フロリダ、ミシシッピ、ルイジアナ、テキサスの港湾を閉鎖している。4月27日には、さらにノースカロライナとバージニアの港まで閉鎖を広げた。つまり南部は、外国からの物資補給も、綿花輸出も断たれたことになる。が、すでに"独立"したつもりだった南部は、ヨーロッパ諸国、とりわけイギリスとフランスがこの港湾閉鎖作戦を「国家主権」の侵害と考え、かつ自国の経済に打撃を与えるものとしてその「侵害」に抗議、港湾閉鎖を突破して、「国家」を助けに来てくれるだろうと期待した。南部の誤算は、原料供給地である自分たちを過大評価していたことである。英仏は、アメリカがだめなら、他があるさ、と、港湾閉鎖をそれほど意には介していなかったのである。
一方、リンカーンは、あくまでも南部は連邦の一部であり、この戦争は「反乱」を抑えるためという論理を通しきった。そして、へたに「反乱」軍を支援したら、北軍に対する宣戦布告と見なすと脅したのである。リンカーンの「脅し」に考えるところがあったのか、英国は、1861年5月に中立宣言をした。そして他のヨーロッパ諸国も英国に従った。とはいうものの、老練なヨーロッパ諸国のことである。中立の立場はとるが、アメリカ南部を国際法上の交戦国とみなす、という南北両方と交渉する態度に出た。「国際法上の交戦国」とは、まだ他国から承認された国家主権はもたないが、中立国から資金を借りたり、物資を購入したり、また公海でも交戦国としての権利−つまり、中立国の船舶を停船させ、船に乗り込み、敵に向けた輸送物資を検査したり、敵の船を拿捕するといった、戦争状態にある主権国家と同等の権利ーをもつ組織とみなすというものである。さすがあ、イギリス。(笑)
リンカーンたちは怒った。これでは、英国が南軍を主権国家と承認するのは時間の問題かも知れぬ。。国務長官のスワードは、駐英大使のチャールズ・アダムスに指示を出した、「国内的反乱軍には関わるな、さもなくば戦争を覚悟せよ」と英国に警告せよ、と。。リンカーンさん、イギリスと戦争する力があったの。。(笑)たぶん、はったりだろう。いちかばちかに賭けたのである。リーダーには虚勢という勝負師の度胸が必要とならば、リンカーンさん、ぴったりだ。(笑)
南北戦争でのリンカーンの業績のひとつは、南部を主権国家と認めるならば、戦争も辞さないと強い態度に出ながら、英国やフランスとの戦争を避けえたことだった。つまり、飴と鞭で交渉しながら、自分の立場を貫き通せたその手腕が評価されたのである。要するに、相手に手強さを見せつけたものが外交の勝者ということか。経済大国日本と北朝鮮は、どっちが勝者?(笑)外交の巧拙とは、「ごろつき度」の隠蔽手口で決まるものかも知れない。
そんなときに起きたのが、トレント事件だった。
南部連合大統領、ジェーファーソン・デービスは、英国とフランスへ、南部を代表する大使?を送った。英国には、人権宣言を書いたジョージ・メーソンの孫であるバージニアのジェームズ・メーソンを、フランスにはルイジアナのジョン・スライデルである。二人は、10月12日、小さな個人所有の船、ゴードン号に乗り込み、ひそかに真夜中の1時に、サウスカロライナのチャールストンを出航した。北軍の港湾閉鎖をうまくすり抜けて、キューバに向かった。そこから二人は、英国の郵便船、トレント号に乗りこみ、英国の港、サザンプトンに向かったのである。
11月8日、チャールズ・ウィルクス海軍大佐が指揮する北軍の戦艦サン・ファシント号が、キューバの東300マイルの公海でトレント号を攻撃した。諜報部からの情報で、南軍の意図と、トレント号に外交官が乗っている可能性大という情報が来ていたのである。北軍は、トレント号に乗り込み、南軍の外交官二人を確保、戦艦に連行し、北軍の海域に向かった。そして、トレント号はそのままイギリスに向かった。
11月23日、サン・ファシント号がボストン港に入港すると、ウィルクス海軍大佐以下は大歓迎を受けた。当時、苦戦していた北軍にしてみれば、やったあ、と戦気高揚、つかまった南軍の二人の外交官は、近くのウォーレン砦に監禁された。怒ったのが英国である。これは国際法違反だ、南軍の外交官だけを捕えるのではなく、船自体を捕えるべきだった、北軍は謝まれ、南軍の外交官を返せ、裁判を開け、と手紙を送ってきた。手紙は、12月9日、ワシントンにいる駐米大使ライオンズ卿に届けられ、彼がスオード国務長官に届けた。南軍は、この英国の動きを喜んだ。英国が北軍に宣戦布告をしてくれるかも、と期待したのである。国際法といった法律問題というより(法律なんて、解釈で好きなようにねじまげられるではないか)侮辱だ、顔をつぶされた、という思いが強かったのだろう。だいたい戦争なり争いごとは、メンツがものを言う。(笑)
リンカーンは、窮地に陥った。英国と戦争ができる状況ではなかったが、英国の要求を呑むのも、政治的に不可能である。すでにウィルクス海軍大佐は北部では英雄である。今さら、国民の気持ちに水はさせない。リンカーンは閣議を開いて、対応を検討、「戦争はいつも一つだけにしよう」ーつまり、同時に英国と南軍と戦うことはしない、と決定した。国内的には難しくても、国際社会ではベスト、と判断した。さすが、リンカーン。。ブッシュよ、イラクとアフガンと両方に同時に手を出して、やっぱり収拾つかなくなったね。(笑)
スウォード国務長官は、ライオンズ卿に、注意深く、南軍の捕虜ー外交官二人ーを解放するとしながらも、同時に国際法違反を主張する英国に挑戦した。「1812年の英米戦争から、中立国の権利は認められてきた。基本的に北軍は、サン・ファシント号には、中立国のトレント号を捉える権利はないと考えた。それに、捕虜となった外交官は、"アメリカ合衆国”の市民である。だから、サン・ファシント号の行為は、交戦中の戦争行為とは考えない。」ー相手の要求はのみ、顔をたてながらも、自国のメンツも守った。戦うとは、外交とはそういうものなんだ。
12月25日、リンカーンは、南部の外交官二人を解放すると決定。クリスマスのその夜、多くの人をクリスマスディナーに招いたとは読んだが、ドンちゃん騒ぎをしたかどうかは不明(笑)。でもまあ、英国とどう張り合うか、気持ちが決まって、ほっとしただろうなあ。(笑)
1862年1月1日、メイソンとスライデルは無事に解放され、ヨーロッパに向かうことが許された。これは北軍にしてみれば「全面降伏」だが、これを謝罪とみた英国は、身をひいた。自分のメンツが保たれたからである。結局、南軍はヨーロッパからの支援を得ることはまったくなかった。英国は「一枚」どころか二枚も三枚も上手だったのである。
この事件以降、北軍、そしてリンカーンに対する英国の態度が変化した。ライオンズ卿なんかは、リンカーンは西部の田舎っぺの下層の出身だと鼻からバカにしていた。スウォードは世界を旅行し、多くの指導者たちと会見してきていたが(といっても、ヨーロッパだけじゃないの 笑)、それまでは単なる「戦争屋」と見られていた。が、スウォードの都会派的洗練さと田舎っぺリンカーンのドン臭さとがうまくマッチして、なかなかの外交手腕ー要するに、相反する価値観を飴と鞭で使いわけるーが発揮できるということを世界(といっても、ヨーロッパだけじゃないの 笑)に証明したというわけである。しかもリンカーンは、スウォードと違って、苦労人だけに人の心を読むことができた。そして何よりも、リンカーンの言葉使いの巧みさが、最適のタイミングと場所と人間を選んで発せられると、最高の外交ができるというわけである。ふ〜〜〜ん。日本人なら誰。(笑)
英国が南北戦争からきれいに身をひいたことで、国内戦争に集中できるようになったリンカーンは、1861年12月、北軍に従軍している逃亡奴隷に自由を与えることにした。南軍につかまったりしたら、その場で処刑されるか、売りに出されてしまう危険を冒している黒人兵士たちに、リンカーンは、南軍がそういう行為をに出たら、報復すると宣言した。南軍に従軍する黒人兵解放第一弾に次ぐ、奴隷解放宣言第二弾である。