「イリノイ探訪」
エリザベス
しょせん、そんなもんだよね、と思った。皮肉なものである。20号線沿いにある、人口約650人の小さな村エリザベスの北、アップル・リバー・フォートでのことである。
ちょうど"あの日"のように、熱い日差しがじんじんてりつける暑い日曜日だった。小高い丘のてっぺんにフォートはあった。一目で手作りであることが分かる丸太のフォートの前には、星条旗がはためいている。フォートの中に入った。狭い。こんな狭い所に50人近い人々がこもって、インデイアンとたたかったのか。突然地元の男性が、暑い日だというのに、重苦しい19世紀の庶民の服装で現れた。観光客に歴史を語るボランテイアである。
フォートには3つの建物が作られていた。1995年の考古学調査で、弾丸や小さな食料貯蔵庫、ごみだめ、足跡などが出てきて、その結果に基づいて再現されたようだ。そのうちで一番高いところにある建物には銃穴があった。ここに銃を差しこんで、当たろうが当たるまいが、インデイアンめがけて必死で撃ったんだろうなあ。
1832年5月14日のステイルマン・バレーでの戦いのあと、ブラックホークたちがこちらにやってくると噂に聞いたアップル・リバーの人々は、大急ぎでフォートを作った。縦70フィート横50フィートの広さである。そして6月24日の暑い日曜日、ついにブラックホークに率いられた200人のインデイアンたちがこのフォートを攻めた。ブラックホークが襲った唯一のフォートである。フォートには約45人の老若男女がたてこもっていた。激しい戦いは45分ほど続いたが、白人側に負傷者は少なく、男が一人死んだだけだった。
この戦いのことを、ブラックホーク自身は自伝の中で、次のように言っている。「フォートの近くまで来ると、4人の男が馬に乗っているのが見えた。我々の戦士の一人が発砲し、一人の男に傷を負わせた。残りの戦士たちは戦闘準備に入るかのように、ときの声をあげた。しばらく我々は身を隠し、何が起きるか見守っていたが、誰も来なかった。4人の男たちはフォートに入っていき、大騒ぎになった。
我々は男たちについていって、フォートを攻めた。敵の中には勇敢なのがいて、さくの上に顔を出し、我々に向けて発砲したが、我々の戦士が狙い打ちして殺した。そのうち、みんなを皆殺しにするのは、家やフォートに火を放たなければ無理ということが分かった。火を放つと、遠目にでも分かって、アメリカ陸軍が攻めてくるかも知れないので、小麦粉や牛や馬を盗むだけで十分だと思った。それで家に入って、小麦粉を我々の袋につめ、馬をもらい、牛を追っ払った。」(「ライフ・オブ・ブラックホーク」ブラックホーク著 ドーバーパブリケーション 63ページ)
インデイアンたちは、フォートの中に多くの武装した人間がいると思いこみ、結局近くのキャビンから貯蔵品を奪っただけで退却したと、白人側は書く。たぶんそうだろう。男たちが間断なく打ちつづけたからである。それはまさしく"銃後"に女たちがいたおかげだった。それも、のちに村が「エリザベス」と呼ばれる所以となった、3人の「エリザベス」のおかげだった。まずエリザベス・アームストロングが、戦いのあいだ女たちの先頭に立って弾丸を作り、マスケット銃に詰め続けた。二人目のエリザベス・ヴァン・ボルケンバーグはひそかにフォートを出て、弾丸を作るための鉛をとりにいったそうな。そして3人目のエリザベス・ウインタースは、この地ではじめて子供を生んだとかで、新しい命を前に、みんなは希望にかりたてられたに違いない。
どのエリザベスにちなんだかが何年も議論されたらしいが、とにかく戦いで活躍した女たちを称えて、このあたりはエリザベスと名づけられ、1868年5月4日に村となった。皮肉なのは鉛とインデイアンの関係である。
素人にとってほぼ理解不能なインデイアン問題といえば、土地問題だと私は考えている。サウスダコタの居留地の土地問題なんて、インデイアンの弁護士ですら「むずかしい」と言っていた。今シカゴの自然史博物館で鎮座しているらしい恐竜の「スー」なんて、サウスダコタのインデイアン居留地でスーという白人女性が見つけたものだから、それはもう大変な騒ぎだった。
資金を出して見つけた白人ビジネスマンたちと、見つかった場所に住むインデイアン男性と、居留地を管理する連邦政府が三つ巴で「スー」の所有権を争ったのである。最初「スー」は、州立大学に一時的に保管されていたので、同居人も無料で拝むことができ、感激していたが、そのうちFBI、つまり連邦政府がやってきて、行き先が決まるまで「スー」を差し押さえてしまった。そのため「スー」は、まるで「犯罪人」でもあるかのように世間から消えてしまった。数年後、忘れたころに、シカゴの博物館が膨大なお金を出して買い取ったというニュースが地元をかけめぐった。結局サウスダコタの人間は、非常に限られた人間以外、「スー」を全く見ることなく、「スー」を州外に送り出したのだった。19世紀のイリノイの鉛も、どうやら20世紀の「スー」によく似た状況にあったらしい。
ガリーナを中心にしたこの地域で、一番最初に鉛を発見したのはもちろんインデイアンたちである。7500年前には鉛を発見していただろうと言われている。他の部族と交換したり、アクセサリやボデイペイントに使っていた。熱い火をおこし、溶かせば、鉛は岩石から離れて、柔らかく灰色になり、打ち伸ばしができることをインデイアンたちは知っていた。鉛掘りだし作業は主に女たちの仕事で、そのやり方は、地面を2フィートほど掘るだけの非常に原始的なものだった。
最初に多くの鉱山を記録に残したのは、フランス人のジェスイットの宣教師や探検家たちである。1634年にやってきたジャン・ニコレットは、鉄砲といっしょに鉛の使い方をインデイアンに教えた。要するに、鉛とは弾丸に使うものだとインデイアンに教えたのである。1683年にこの地域に送られてきたニコラス・ペローは、アイオワ族やスー族と関係を結んだ。そのうちフランス政府が興味を示しはじめ、ますます多くの探検家たちがやってきた。1712年にはルイ14世が承認し、1762年までにはフランスがミシシッピの両岸を所有するようになっていた。
その後、条約でミシシッピの東岸は英国のものとなったが、英国は1765年まで領有権を主張しようとはしなかった。ミシシッピの西岸は、1763年の秘密の条約でフランスからスペインに渡ったが、実際には1769年までフランスが領有していた。
ブラックホークが率いたサーク族・フォックス族といい関係を築いたのは、ケベックから来たフランス人のジュリアン・デビュークである。ガリーナに来る前には、イリノイ南部のカホキアに住んでいた。インデイアンをよく理解し、インデイアンたちも彼を信頼していた。だからこそ鉛のことを教えたのだろう。1788年にサ−ク族とフォックス族から許可を得たデビュークは、インデイアンを使って、今日のアイオワ州デビュークあたりのミシシッピ川西岸で鉛の採掘をはじめた。スペインの土地になっていたため、デビュークはスペイン政府にも申請書を書き、採掘の認可を受けていた。
デビュークは1810年に死んだが、インデイアンたちは彼の墓に灯りをともし続け、フォックス族は年に一度墓参りをしたという。この地域のインデイアンにとっては、白人との最後の"蜜月時代"だったに違いない。フランスやスペイン領有を経た後、ミシシッピ川周辺は何やら、英国とアメリカとインデイアンが争う「紛争地域」となっていくからである。ブラックホークは、この国家間の紛争にまきこまれて人生をすり減らした。
1763年のパリの平和条約以前は、英仏が北米での覇権を争い、インデイアンをどう味方にひきこむかを画策した。それはインデイアンにとっては有利な状況だった。ところが、1775年のアメリカの独立戦争を経て、経済的・政治的優位をめぐる競争が英仏から英米間のそれに変わった。1783年のパリ条約により、アメリカが五大湖の南からミシシッピの西までを領有することになったが、実際には数多くのインデイアン国が支配する土地だった。そこへ、いったんはあきらめたオハイオ川以北の地域を英国が再び手に入れようと欲を出したことで、英国とインデイアンの利害が一致、結束してアメリカの西方拡大阻止に動いた。1812年の英米戦争で、ブラックホークは当然ながら英国に組してアメリカと戦った。「サーク族・英国バンドのリーダー」と呼ばれる所以である。
ブラックホークとアメリカ政府との争いのもとは、セントルイスで結ばれた1804年の条約である。条約では、ウイスコンシン川とフォックス川とミシシッピ川で囲まれた地域と、ミズーリの東部3分の1を合わせた50ミリオンエーカーの土地が、2234.50ドルと1年1000ドルの年金と引き換えに、アメリカ政府に渡ることになった。が、条約の条件では、サーク族とフォックス族は、その土地が売却されるまではその土地に引き続いて住むことができることになっていた。だから当時このあたりでは、インデイアンと白人たちが仲良く共存していた。ガリーナ川のほとりではインデイアンたちがよく夏のキャンプをしていたと記録に残っている。
当時の鉛の生産は、ニューヨークやニューハンプシャー、ペンシルバニア、ヴァージニア、ノースカロライナといった東部の生産があまり期待できず、イギリスに依存せざるをえない状況にあった。ところがここ西部で、それも浅い地層で発見されて、しかもインデイアンたちが今だに石のピックや骨で作ったスペード、木のシャベルといった実に原始的なやりかたで手掴みしていると聞いて、アメリカは色めきだったのだろう。その上、1812年の戦争で英国産の鉛が途絶えてしまったので、ガリーナの鉛産業が急激に拡大したというわけである。
1815年頃のガリーナあたりでは、インデイアンが鉛を溶かす炉が20ほどもあったとか。ガリーナ川からセントルイスに向けて初めて鉛が積み出されたのは1816年のことだから、インデイアンの働きもおおいに貢献したに違いない。このあたりで最大の鉛鉱は、1819年、インデイアンによって発見されている。ガリーナの北1マイルほどのところにあったもので、よっぽどお金になったのだろう、「バック・レッド(Buck
Lead)]と呼ばれた。
インデイアンたちは、フランス人とは違い、基本的にアメリカ人とイギリス人を怖がっていた。とりわけアメリカ人には鉛のあるところを教えるのをいやがった。教えたら、そのうちそこから追い出されるのが分かっていたからである。連邦政府は、独立戦争や1812年戦争の復員軍人たちに鉛の採掘権を与えた。鉛をめぐって、何やらアメリカとインデイアンのあいだがますますぎくしゃくしはじめる。
いよいよ1820年代にガリーナの鉛産業が活発になると、アップルリバーでも人が住むようになった。最初にやってきたのはヴァン・マーツルという人で、1826年のことである。もちろん鉛探しが目あてだった。そしていよいよ、鉛目当ての白人とインデイアンの関係が悪化していくのが、1829年あたりからである。サーク族とフォックス族が冬の狩りから帰ってくると、自分たちの土地に白人たちが住んでいることを発見、その後まもなくその土地は売却されることになって、インデイアンたちはミシシッピの西岸に追いやられてしまった。イギリスが自分たちを助けてくれると信じていたブラックホークだったが、それが幻想だと知ると、自分たちの足で自分たちの故郷に戻ると決心、ロックリバーを500人の戦士と700人の女子供、老人たちとさかのぼりはじめた。それが1832年4月である。
鉛で沸くガリーナは、ブラックホーク追討の陸軍の本拠地とされた。鉛は完全にアメリカ政府の手におちた。インデイアンたちが見つけ、白人たちに教えた鉛が、結局は自分たちを滅ぼしたことになる。もともと鉛の山師で始まった村は、インデイアンを鉛で撃ち殺す戦いに貢献した女の名前でもってたたえられている。皮肉なものである。
現在は州の歴史的場所に指定されているフォートの入り口に立つと、眼前にはるか遠くまで豊かに広がる緑の農地が見渡せる。平和そのものである。かつてここには、トールグラスのプレーリーが東はインデイアナから西はネブラスカまで、北はマニトバから南はテキサスまでひろがっていた。何万年ものあいだ、このトールグラスが動物たちの住処となり、厚い黒土をつくり、インデイアンの生活を支えてきた。アップルリバーで鉛の鉱脈を探した人々は、プレーリーの黒土の厚さに苦労したという。
が、"あの日"の数年後、プレーリーは突然消えてしまった。そして1860年までにはイリノイから全滅した。1837年にジョン・デイアが鉄の鋤を発明したからである。やがてインデイアンを滅ぼした鉛も枯渇し、豊かなプレーリーの土は生産性の高い農場に変わってしまった。アッパーミッドウエストには現在、オリジナルのプレーリーは、かつての1パーセントのそのまた10分の1が、わずかにてんてんと残っているだけだ。
フォートのすぐ前に小さな庭が作られ、こんもりと草がおいしげっている。今、"あの日'と同じプレーリーを再現しようという動きがあって、1999年に5種類のネイテイブグラスと42種類のワイルドフラワーが植えられたのだった。フォートから眺めるプレーリーの草は、熱い日差しを受けて輝けば輝くほどまさしく「夏草やつわものどもの夢のあと」だった。