インデックス
15 辺見 庸著「今ここに在ることの恥」(毎日新聞社刊)より
共同体
私は、社会の枠組みという言葉を使いましたが、「共同体」という言葉を読みました。そして、日本人にとって共同体とはメンバーズクラブのようなもので、メンバーズクラブの入り口の時点でメンバーの選別をする、とあります。
養老孟司著 「死の壁」(新潮新書 2004年) 101−102ページより
選別の基準の一つが、このような身体の状態だと考えられます。またもう少し厳しい基準では、「日本人に見えないといけない」というものもあります。だから黒人や白人というのは非常に日本人になりづらい。外見が違いすぎるからです。(中略) 少なくとも、黒人が歩いていて、「あれは日本人だ」と思う人はあまりいないでしょう。その「常識」はどこから来たかといえば、あきらかに「我々の仲間はこういう顔だ」というルールが根底にあるということなのです。
この日本的な感覚について、来日した欧米の人が「日本人は我々を差別している」と言いますが、実は人種差別というものとはちょっと違うのです。むしろ仲間はずれの感覚に近い。肌が黒いから差別するのではなく、日本人じゃないから仲間はずれにしているだけなのです。メンバーでなければ白かろうが黒かろうが同じこと。(後略)
大足のシンデレラでは、なかなか日本人には見えなかったということかなあ。。。だから、外人と結婚するしかないな、みたいなこと、言われたかなあ。。女として「仲間はずれ」にされたのかなあ。。。(笑)
もう一度「死の壁」から
著者は、次のように書いてます。
私は知的障害についても、生まれついてそうなった以上は仕方がない、いいほうに考えるしかないだろうと思っています。こういう現状肯定に対しては、もしかすると「差別を肯定するのか」と言う人が出てくるかもしれません。しかし、私が言っているのはあくまでも自然界の話です。人間が意識的に作ったルールでの差別などは改善出来るのですから、改善できることはしたほうがいいでしょう。
しかし、人間の力の及ばぬところで出てきた結果は、仕方がないと思うしかない。背が高いとか低いとか、色が白いとか黒いとか、地震も噴火も「仕方がない」ことで。知的障害も同じことです。 (183−184ページ)
身体が大きいのも確かに「仕方がない」ことです。それはよくわかっています。私が怖いのは、「普通」の人が、この「仕方がない」精神でもって、自分たちの問題意識のなさを正当化し、傷ついている人間をむしろ非難することです。大きいことをどんなに嘆いても、仕方がないじゃないの、みたいに。で、著者が逃げているのは、社会ー著者の言葉で言うと共同体ーの「差別」だか「仲間はずれ」にするメンタリティが、著者が別のところで書いたように、明文化されていない暗黙のルールになっていることです。意識的に作られたルールなら改善はできます。でも、共同体のルールが、暗黙ーつまり無意識のレベルに近いものなら、改善などそう簡単にできるはずがない。「仕方がない」自然の条件が、共同体によってどのような意味づけがなされるか、もし意味づけがネガティブのものなら、その部分の改善はどうするか、については著者は言及しようとはしない。むしろ共同体の現状を肯定しているようにも思われる。そこが著者の論の欠陥であり、理系の人間の限界でもあります。。。(笑) が、同時に、本がベストセラーになる条件を満たしている、ということでもあります。(笑) 著者が言うところの「仕方がない」が、ポジティブに前向きに、みんなをありのままに認める、という気持ちにつながるのならいいですが、今の日本の状況では、「仕方がない」=愚痴るな、という口封じになる、と懸念します。
(竹内一郎著、新潮新書)より
言葉によるコミュニケーションは7パーセント、ノンバーバルによるコミュニケーションは93パーセントと説く著者は、第1話「人は見た目で判断する」の中で、次のように書いています。
教育の陥穽という観点から、一つ補足する。私たちは、子供の頃小学校の先生に「人を外見で判断してはいけない」と教えられた。それは「人は外見で判断するもの」だから、そういう教育が必要だったのだ。逆にいうなら、「人を外見で判断しても、基本的に問題ない。ごくまれに、例外があるのみである」といってもよい。(20ページ)
我々が演出家が経験則に基づいて行っているキャスティングは、「多くの人がそういう風に見ている」という先入観に基づいている。なぜそういう「先入観」をもつのか。それは「そういう人が多い」という「事実」に基づいているのである。
ここでいう「事実」は必ずしも現実生活でのことのみを指すのではない。映画やテレビでそういうキャスティングが行われているから、受け手はそういう傾向を常識、「事実」として学習していくのである。(24−25ページ)
ああ、こういう文章を読むとほんとにいやになります。著者は、劇作、漫画原作、舞台の演出や俳優教育をしているとか。つまり、「見る」を仕事の種にしている人です。だから、目は口ほどにものを言う式の、非言語コミュニケーションの重要性を説くのはよく理解できるのですが、顔の形と性格は関係があるといい、ああ、丸顔は明るいだの、角顔は短気だとか、耳が大きく頬がふっくらしていると、実業家として成功しそうだとか言い、かつその根拠が、そういう人が多いという事実があるから、となると、かなり腹立たしく感じられます。
この論法でいくと、「大足のシンデレラ」は、もてない、結婚できない、和田アキ子みたい、といった先入観はこれからも変わらない、とはっきりと言われたような気がします。なぜなら、「多くの人がそういう風に見ているから」。 もてない、結婚できない、は「事実」だから。しかも著者自身が、映画やテレビといったメディアが、そういう著者曰くの「常識、事実」、私にしてみれば外見によるステレオタイプの刷りこみに加担していると、はっきりと認めています。ああ、「大足のシンデレラ」の敵は、演劇関係すべてのメディアだと改めて認識しました。
それにしても、この本も出版されて半年で30刷を数えています。こういう現状維持・自分が置かれている状況に疑問を呈さず、無理やりにでも納得させようとする本ばかりが日本ではよく売れるようです。ああ、うんざり。。
マンガ考 (「人は見た目が9割」から)
マンガは詰まるところ「見た目」勝負の文化である。 (69ページ)
マンガの世界では、「可愛い女の子」の定番がある。つまるところ、男の子に人気のある女の子像である。男の子がそういう女の子を求めているのだから、女の子はそういう女の子を目指す。「可愛い女の子」のポーズの第一の特徴は、快活に足を広げているときも、膝は内側を向いているというものである。(中略)従順の表明である。パーソナル・スペースを狭くしてでしゃばらないという印象を相手に与える。(中略)男の子にとって、女の子は「隙」のある存在でなければならない。そうでなければ近づけなくなる。(64−65ページ)
「平和主義者」
心理カウンセラー根本裕幸さんのサイトから、「平和主義者」という考え方をご紹介します。
(http://www.counselingservice.jp/lecture/lec232.html#links から抜粋)
●平和主義者とは?
心理学的に言う平和主義者とは、嫌われるのが怖くて争いや揉め事を避けることを目的に、自分の気持ちを抑圧したり、考えを引っ込めてしまうパターンを持つ人を指します。
「私さえ我慢すれば・・・」といつも周りの人の顔色を伺い、争いを避けていることが多いので、いつしか自分自身を見失い、素直な気持ちが分からなくなる事も少なくありません。いつも怯えて周りを見回してしまうかもしれないし、行動を起すときに周りの目線が気になって身動きが取れなくなってしまうこともあります。そうして、人との争いを起こさないように心の内側に封印してしまうと、それが全部心の中でぐるぐる回ってしまい、常に自己嫌悪に苛まれることもあります。
いわば人に対して向かう怒りが自分に向かってしまうんですね。嫌われたくないし、怒らせて関係をややこしくしたり、場の空気を乱してしまうくらいならば、自分さえ我慢すれば・・・と抑えてしまうんですね。それが皆の幸せや平和を願ってのことならばあまり問題は無いんです。でも、それが程度を超えてしまうと、今度は「そういう風に怒りを感じるのは自分が未熟なせいだ」とか「こんな気持ちになってしまう自分がダメなんだ」と強い自己嫌悪を伴うようになります。本当に力づくで自分の気持ちを押さえ込むような感じです。
それが必ずしも間違っているわけではないのですが、そういう自己嫌悪で感情を封印することは、常に自分で自分を傷つけてしまうことにもなります。
それは本当にしんどいことで、苦しいことだけれど、かといって外に向かわせることもできないし、と思い、どんどん辛い気持ちが重なってしまうようになります。
そうすると例えば部下に対しても叱れない上司になり、また、対等な関係性を持つはずのパートナーや友達に対しても我慢するばかりで、苦言を呈することができなくなるんですね。もちろん、最近言われる子供を叱れない親もこのパターンがあります。それくらい嫌われることや揉め事が怖く、争いを避けるためなら何でもしてしまう、そんな悲しみがあるんです。
こういう葛藤が長年続くと、その関係性だけでなく、何に対しても燃え尽きてしまい、強い疲労感を持つようになります。中には病気になってしまう人もいて、その際も、病気と「闘う」意志よりも、諦めが心を支配してしまったりもするのです。
●心の底にある究極の“無価値感”???
でも、どうして平和主義になってしまうのか?というと、感情を出す事で嫌われるのではないか?自分が煙たがられるのではないか?という怖れ(無価値感)が隠れていることが多いようです。無価値感というのは、一言で言えば「自分は愛される価値などない」という感情です。だから、“人から嫌われないためには何かしなくちゃいけない”という補償行為をとるようになるんですね。つまり、行動の多くが「怖れ」をベースにしたものになってしまうんです。
怒りを出せなくて平和主義になってしまうのも、人から嫌われる怖れがあってのこと。でも、逆に言えば、それくらい平和主義者は人間が大好きなんですね。大好きな“人”を傷つけたくない、困らせたくない、と自分ひとりで抱え込むようなものかもしれません。そうやって相手を守ろうとするのですが、でも、それは自分自身が犠牲になった上で成り立つもので、たとえ問題と感じる点があっても、自分自身のせいにして感情を押さえ込んでしまいます。
そして、我慢の限界が来るとはっきり相手に文句を言うのではなく、静かに退却するんです。
自然消滅というか、切り捨てるというか。だから、相手の人からすれば、どうしてそうなったのかが分からないことが多いんですね。それでは自分のためにも、相手のためにもならないんです。それが分かっていても、怒ることができない、感情を出せない場合も少なくないのですが、自分でもそうと思い当たる原因が分からない場合には、やはりあなたの育ってきた環境が大きく影響しているのでしょう。その典型が、私達にとって当時最大の恐怖だった「両親のケンカ」です。
●両親の葛藤(ケンカ)を目の当たりに?
こうした平和主義に陥るのは両親の不仲を目撃してきたケースが多いようです。ケンカばかりする両親を見るのは、子供としてほんとうに辛いことで、それこそ、ハートがつぶれてしまいそうな衝撃を受けています。両親がケンカしているのを知りながら、布団の中で恐怖に震えながら早く収まるのを待っていた経験を持つ方も少なくないでしょう。
そうしたフォローをきちんとしてくれる両親なんて滅多にいないですし、むしろ、それが自分自身に飛び火して怒られたりすることもあって、「もう
ケンカは嫌だ」「自分の子供にはこんな思いをさせたくない」という思いを持つようになります。そうした経験が人との争いや揉め事に非常に神経を尖らせるようになるんですね。ただ、子供の世界で感じる親のケンカと、大人になった現在のあなたが見るケンカはまた違うものだと思います。
例えば、小さい頃ずっと両親が仲が悪く、お母さんから愚痴を聞かされながら育ってきて、「早く離婚すればいいのに」と思ってた方も少なくないと思います。でも、あなたが大人になった今も、両親は離婚しなくて、かといって仲が良いわけでもなく、そんな両親に疑問に感じられる方もいらっしゃるでしょう。そんなとき大人の目線でもう一度両親を見つめなおすと、また新たな見解が手に入ることがあります。
例えば、両親にとってはケンカがほとんど唯一のコミュニケーションツールだったということ。もちろん、ケンカというのはとてもリスクの高い方法ではありますが、そうしてお互いの意思疎通を図っていたり、感情を解放して癒しあっていたりする場合も実はあるんですね。特に昔の人はなかなか感情を表現するのが苦手ですから、ケンカと言うコミュニケーション方法を“無意識に”選択してしまうことは少なくないようです。
もちろん、実際に離婚してしまった両親もいると思うんですが、子供の目線で見ていた世界と現実とは違っている場合もある、という例として捉えてみてください。特に子供時代のトラウマ(傷ついた経験)は、その経験をした時点で時計の針が止まってしまっていることも少なくありません。だから、両親のケンカを肌で感じていた子供時代と、今の大人になったあなたでは見方を変えることも十分可能なはずです。
また、大人のあなたが改めて両親とコミュニケーションしてみることもできるんですね。例えば、カウンセリングの中でこうしたテーマを扱うと、ある程度癒しが進んだ時点で、「その子ども時代にあなたが経験した思いをお母さんにお話してみませんか?」と提案することがあります。少し両親に対する気持ちが変わり始めた頃がポイントなのですが、そのチャレンジによって、親御さんとの距離感が一気に縮まる(まるで友人のようになる)ことも多いのです。
●勇気を持って一歩前に
もし、ここまで読んでこられて、どこか感じるポイントがあるとしたら、あなたも平和主義者なのかもしれません。だとしたら、あなたは今現在、誰かにまだ言えていない不満や怒りを持っている最中ではないでしょうか。でも、そうと気付いても実際にその相手に向かってコミュニケーションするのはとても難しいことだと思うんですね。
平和主義者は完ぺきにやろうとする傾向があるので、すぐにうまく行かなくても、それが当然と思って向き合ってみる必要があります。まるで初めて自転車に乗ったときを思い出すように、少しずつ練習していきましょう。
そういう時に僕がよくお勧めする方法は、お手紙を書いてみること。実際に文章にしてみることで、頭の中で考えていることを表現することがいかに難しいかを実感できますし、いい表現の練習になります。このお手紙も最初は実際にその相手に渡す必要はありません。まずは下書きのようなつもりで書いてみるといいでしょう。その後に相手に渡す手紙をしたためてみます。これで緊張感は一気に増すはず。
手紙を書くという行為は、直接的ではないものの、相手と向き合う効果がります。カウンセリングの中でも、相手を思い浮かべながらコミュニケーションするセラピーがありますが、現実的に相手と向き合わなくとも、手紙やイメージを使うことで同じ効果が期待できるのです。そうして、相手と向き合ってみると、言葉にならない感情や、思っても見なかった気持ちが溢れてきて心が開かれていくことに気付けると思います。
実はこうして感情を解放する、オープンにすることで、あなたの中の生命力が少しずつ蘇ってくるのです。平和主義者になってしまうと、怒りだけでなく、喜びや楽しさなど、ポジティブな感情表現も抑えるようになってしまうことが少なくありません。だから、勇気を持ってその相手と向き合えた分、その成功・不成功の如何に関わらず、より解放的な気分を味わえるようになるんです。
●本当は人が好き、人を愛したい、その気持ちに気付こう!
そして、先ほど触れたように平和主義者になるくらいですから、人のことが本当は大好きなんですね。そのことは思い切り胸を張っていいことです。
「私は、人が、好きなんだ!人を愛したいんだ!」と堂々としてみると、更に次のステップに自然と進めるようになります。
それは、もっと人間を好きになる、愛する、ということ。そうすれば、本当の平和のために、時には戦える強さが得られるようになります。無価値感を抜け出す秘訣の一つは、その自分自身が持っている愛の強さを知ること、受け入れること。だから、あなたが感情を抑えるために使っている力を少しでも誰かを愛する方向に差し向けてみると、大きく流れを変えることができます。そのためにも、先ほどのお手紙を書く際も「相手のために、その人のために」という思いを強く持ってやってみてください。
実際のコミュニケーションではこちらの善意が悪意として伝わってしまうことも少なからずあるものです。でも、それを怖れるのではなく、それならそれでもいいと思えるくらい愛することを選択できると、さらに広い心、本当の寛容さを身に付けることができます。そこでは多少敵を作ってしまうかもしれませんが、同時に本当の味方もきっと手に入ります。そんな自分を良くやった!と賞賛してくれる仲間がきっと生まれることでしょう。焦らず、結果を求めず、心を解放し続けることをテーマに、まずは一歩踏み出してみませんか?
======抜粋終わり======
日本でがんばっている 大きな女性たちが抱えている気持ちの中にも、この平和主義に通じる部分があるかもしれません。日本社会の問題点の一つは、この平和主義を、社会ー共同体もしくは縄張りーの枠組みとして、外から強制的に押しつけようとするところではないかなあ。。たとえば、「和」という美しい言葉とともに。。。平和主義者のエネルギーはやはり「内向き」ー私の言葉で言うと、ネガティブですね。となると、大足のシンデレラは戦争主義者ということになります。(悲) ブッシュのイラク戦争じゃないけれど、大言壮語に美辞麗句の理想を掲げて、「外向き」に戦争をおっぱじめる人間なんて、やっぱりしょせんは「負け」かなあ。。(悲)
竹内一郎 「人は見た目が9割」2
(新潮新書)より
制服を着るということは、没個人になることだ。匿名性が高くなると考えてもよい。反社会的な行動や攻撃的行動に対して、自己抑制が弱められるのだ。。。没個人になり、なおかつ処罰さえなければ、人間はやりたい放題になるものである。。没個人になったほうが、攻撃性が高められるからだ。(157−158ページ)
日本社会が、学校時代から制服社会であることを考えると、大足のシンデレラが見知らぬ他人から受けてきた言葉の暴力がどこから来ているのか、この文章を読むとわかったような気がしました。つまり、日本人の他者に対する無神経な意識は、制服を着せられる学校時代から醸成されるのであり、もちろん学校を出た社会にあっても、その制服意識をひきづっているのではないでしょうか。というか、長年制服の下に隠し持ってきた攻撃性があらわになるのではないでしょうか。
学校という場所は、教師やら校長といったはっきりとした権威者がいて、彼らが一応支配しているところですから、制服を着ていることで生まれやすい攻撃性は一応影をひそめねばならないことになっているわけです。(といいながら、昨今のいじめがどういう構図になっているのかは、ちょっと私にはわからないですが。。言いかえると、学校内を仕切る権威が弱くなっているということかもしれません。) でも、学校を出たあとで発せられる制服意識による言葉の暴力には罰則はないわけですから、人間やりたい放題ーつまり大足のシンデレラは言われ放題できた、という感じでしょうか。もっと考えてみれば、制服意識ー没個人なんて、権力者が大衆を支配しやすくした装置であったわけで、制服を着せられている存在が無知のあいだは、装置がうまく働いてよかったかもしれませんが、戦後教育とこの情報化時代にあって、制服存在が簡単に情報を手にいれ、よけいな「知恵」がつきはじめると、制服存在の攻撃性があらわになり、またあらわにすることに抵抗がなくなり、権力者が収拾をつけがたくなって、最終的には権力者すら制服存在の攻撃性によって滅ぼされてしまうのかもしれません。。
「日本沈没」かなあ。。 で、それを避けようとすれば、制服存在の攻撃性を圧倒的な力で押さえこまねばならないー全体主義再来??? いやいや、そんなむずかしいことではなくて、とにかく人はほんとは、自分はみんなと同じ、じゃなくて、人とは違うんだ、違う魅力と能力があるんだ、と思いたいんじゃないでしょうか。ところが、制服を着せられることによって、その願望が無理やり押し込められるわけですから、よけいに攻撃的になる???
とにもかくにも、なんで日本では、通りすがりの見知らぬ他人が平気で「でけえなあ」とか「結婚できないなあ」なんて言えるのかな、とずっと疑問を抱いてきましたが、制服社会と匿名性と攻撃性との関連性がわかって、ちょっとすっきりです。(笑)
「自由の女神」
2006年8月10日あたりの新聞で、「自由の女神展望台、永久封鎖」という記事を読みました。昔、ニューヨークの自由の女神像に行って、列を作って、一番上の王冠部分まですごい狭い螺旋階段を、えっちらこ、えっちらこと上っていったことがあるので、記事には感慨を覚えました。別に王冠部分まで登っても、窓?というか、開放部分は細く狭く、外はほとんど見えませんでした。空の色がちらっと見えただけ、みたいな記憶があります。立ち止まることも許されていなかったと思います。でもあの経験のおかげで、日本人の男に「あんたは自分の女神みたいだね」と言われたときに、「自由の女神みたいに、中はからっぽじゃない」と言い返せたんですよね。。あの展望台が永久封鎖となると、もうそう言い返せる大きな女性は少なくなるのでしょうか。だから、ここではっきりと書き記しておきたいと思います。(笑) 自由の女神像の中はからっぽです。王冠部分まで上る、非常に急で細く狭い、こわあい螺旋階段があるだけです。。(それにしても、どうやって下りたのか、記憶にありません)
「靴学」
私の本の中でも引用しましたけど、きっと靴学なるものがあるのでしょうね。2006年9月号の写真誌「ナショナル・ジオグラフィック」に、靴の記事と写真が出ていますので、ここに引用したいと思います。こういう記事と、美しい靴の写真を見ていると、思春期に男ものの靴をはいていて、あからさまに笑われた経験が、私という女の去勢にいかに効果的に「貢献」してくれたのか、改めて思いを新たにしています。でも、読者の人が書いてきてくださったように、大きな女にはなかなか合う靴がない、服がない、というのは内因であり、自分の工夫次第で改善できる状況でもありましょう。私がとことん去勢されたのは、やはり「笑われた」部分だと思います。長いあいだ忘れてましたが、今ふっと思いだしたことがあります。それまで一度もはいたことがなかったので、一度赤い靴がはきたいと、男ものの赤いエナメルの靴を買ってはいたことがあります。ヤーサンにでもなった気分がして、みなもじろじろ見るので、一度だけはいたきりで、それっきりになりました。(悲) あの靴、あれからどこへ行ったのでしょう。。(どっかで聞いたようなコピーだ。。笑)
(雑誌の記事の引用は、訳するのがめんどうなので、英文のままで載せます)
National Geographi September 2006
Every Shoe tells a Story
WE WEAR OUR HEARTS ON OUR SOLES. "Shoes are the best iondicator of how
people are feeling," says June Swann, a shoe historian ...... Every shoe
tells a story. Shoes speak of status, gender (usually), ethnicity,
religion, professioon, and pollitics....Last, far from least, they can be
drop-dead gorgeous. ...
(Mule/High Heel designer Manolo Blahnik says)
Blahnik, nods, "Yes, only a shoe, but if I provide escape for the woman
who wears it, if for only a few minutes, it brings a bit of happiness to
someone, well, then perhaps, it is somehing more than a shoe. (p.78)
But it's human nature to make things visually appealing, to make one pair a
little more complex than others to set it apart from someone else's. The
desire to wear something different, distinctive, and decorative-that is to say,
the instinct for fashion-has been arouond for a very long time. (p.78)
(ファッションとはぜんぜん縁のない人生でしたー大足のシンデレラ)
(Lace-up Boot designer Natacha Marro says)
Shoes are theatre. "Shoes turn you into someone else. You
can't be a dominatrix in a sneaker. If you are in a high heel, you are
in pain, and you are going to make someone pay for it." Then
there is the drag queen who puts on a high platform heel, and he becomes
she. ...Who doesn't want to be six inches taller? It's a
play. It's a power thing. ..(p.83)
(太字の部分、だからハイヒールをはくとは、男への媚び、ひいては魅力的、もてるということになるのですね。。。まったく縁がなかったなあ。。笑)
(Platform Shoe)
Look what happens when I put on a high heel"...:The breasts
go out: the derriere juts back; the leg elongates", "Men find that
very attractive."
"The foot is an erotic organ and the shoe is its sexual covering,"
William A Rossi, a podiatrist..."The shoe is the erotic foot's pimp and
procurer."..."Wrong...The foot is the pimp for the shoe. It s
the shoe that is the erotic object." Cinderella's glass slipper,
not her foot, ignited the Prince's ardor. (大足ではねえ。。悲笑)
Feminist alert! The theme oif helplessness runs....:I like high
heels,".."It means girls can't run away from me." (p.84) (ふ〜〜〜ん、そんな男心、考えたことも、考える必要もなかったなあ。。笑)
What is it about shoes? She reaches for an answer. "Make you
feel good? Better than sex?" ..."Why shoes? They fit if
you gain or lose weight. They make me feel pretty. They make me
feel very sexy. They're a great antidepressnat. I don't have a pet or a
boyfriend. I have my shoes." Shoes are
armor....Shoes also reveal our vulnerability-not just the weakness of vanity, but
the easily wounded nature of our souls. (p.93)
(記事の最後の一文、心から同意します。靴が性と密接に結びついているというのなら、性ほど傷つきやすく、しかも性ほど深く傷つけられるものはないのではないか、と思いますので。)
ああ、疲れたあ。。記事を読んでの私の結論。。。美しい靴は結局、歩かなくてもいい、今ならリムジン、昔のインディアンの時代なら馬に乗る階級であることを示す「お印」だったとか。大足のシンデレラとしては、裸足で地に足をつけて、ハイヒールとは逆行する!生きかたをしてきたことを心の底から誇りに思いたいと思います。(笑)
8. やせ過ぎモデル5人が「失格」
2006年9月19日付「北米毎日」新聞に、次のような囲み記事が載っていました。
やせ過ぎモデル 5人が「失格」
「少女らに誤ったメッセージを送る」としてやせ過ぎだったファッションモデルの出場を禁じたマドリード・ファッションショーが18日、開幕した。17日に行われた事前の身体測定では、モデル68人中5人が規定値に達せず出場禁止となった。イタリア・ミラノのファッションショーも規定導入の動きを見せるなど波紋が広がっている。マドリード・ファッションショー主催者によると、身体測定は「ボディマス指数(BMI=体重を身長の二乗で割った比率)が18以上」とする拒食症防止のための地域規定に基づいて実施された。「失格」は5人だったが、前年出場者の約30%が事前の測定さえ許可されなかったという。
こういう記事、流れを読むとほっとしますね。女は細ければ細いほうがいい、細くなければならないみたいなこれまでの風潮は、間違っていると思います。拒食症といった、本人にもたらされる死の危険性の問題に加えて、生殖の視点からも、やせ過ぎている女性には問題があると感じてきました。(専門家ではないので、はっきりとは言えませんけれど) 女性は、しもぶくれの顔がいい、という正倉院の飛鳥文化?や、スペインのゴヤといったヨーロッパの画家が描いた豊満な女の身体がいい、という文化はどこへ行ったのでしょうか。復活すべきだと思います。日本の少子化傾向に、いっそう歯止めがかかるのは。。。(笑)
9 いじり
(北米毎日新聞 2006年10月17日付)
お笑い芸の世界には「客いじり」という言葉がある。舞台からお客にからんで笑いをとる芸で、邪道ともいわれる。だが、今のテレビのバラエティ番組は、素人相手や芸人同士の「いじり」芸で成り立っているともいえる。 (中略)
からかいやすい「いじられキャラ」をクラスに作り出し、常に道化役を強いるのが、今の中高生の隠れたいじめの実情らしい。
「日本国語大辞典」(小学館)で「いじる」を引くと、最初に「弱い者を困らせたり、からかったり、いじめたりする」とある。もともとが人をもてあそぶ言葉だったのだ。一説には「いじめる」の語源だともいわれるから、こちらの方が根が深い。(中略)
からかいやすい誰かをからかって場を盛り上げようというのは、人間集団ではありがちなことだ。だがそれが教室という閉ざされた圧力釜のような空間では残酷な暴力になる。本当に悔しい屈辱はそれを自分の笑顔で包まねばならない時であるのも、不快な「いじり」にあった人なら分かる。(後略)
「毎日余録」と題されたこのコラムが、テレビのバラエティ番組に言及しているのはすばらしいと思います。要するに、日本の人たちは低級な文化に日々さらされ、がはがは無邪気に笑っているうちに、自分たちの中に巣くっていく空洞に気づいていないわけです。
論点1 なぜ、バラエティ番組をよりよくしよう、低俗な笑いを拒否しようと呼びかけないのか。テレビ関係者は、たぶんこう言うでしょう、視聴者が喜ぶことを提供するのがわれわれの務めだし、スポンサーも喜びます、と。これって、きのうテレビニュースで見たんですけど、車を運転しながらでもテレビを見たがる人間、そういうマシーンを作る人間と同じですね。メーカー側の人間が言ってました、ユーザーさんがほしがるものなら何でも作ります、と。要するに、金になるのなら何でも作ります、ということです。ああ、いやだ。。たとえ、自動車メーカーがカーナビとやらを、走行中には見られないようにしていても、見られるようにするマシーンをユーザーさんがほしがっている、じゃあ作る、そうです。法律は、こういうところをしっかりと取り締まるべきなのではないでしょうか。人命より、倫理より金、なら、文化も衰退です。
「いじり」が邪道で、その邪道が主流になっているのなら、もう日本のお笑い文化とやらも衰退ですね。ただお笑い文化が衰退しているだけならまだしも、その文化が社会に浸透して、学校の教師まで「いじり」が普通という感覚をもつようになってるわけですから、日本はほんとに沈没です。
論点2 日本沈没をはっきりと自覚するのは、このコラムの筆者も、「からかいやすい誰かをからかって場を盛り上げようというのは、人間集団ではありがちなことだ」と、基本的には「いじり」を肯定していることです。「いじり」は間違っている、と明確に批判しようとしない。この弱腰こそが、すでに日本沈没の兆候です。人をいじってはいけない、と、日本の知識層の一端を担う新聞の論説委員?ですら言えないわけですから。別に教室でなくても、いじりは残酷で、してはいけないことなのです。ましてや、いじられたら笑顔で包むなんて負担を、被害者にかけるようなことは絶対にしてはならない。怒ることを奨励するべきなのに。はっきりと怒る自己表現こそが、人たる権利なのに。。(人権という言葉はあまり使いたくありませんが、あまりにも欠如しているのが日本社会です)
あの国で、倫理はほんとにどこへ行ってしまったのでしょうか。あ、そうそう、受験に必要ないからと高校で教えなかったのかも。で、その結果?、若者が、ああニートになった、フリーターだ、ああ下流社会だ、勝ち組だ、負け組みだ、どうのこうのって、正直言って「馬鹿につける薬がない」ほど、馬鹿な社会ですね、日本って。。
10 メッセージとは
サンフランシスコの84歳女性国外退去に
ナチス協力の罪で
(日米タイムス 2006年10月3日付)
ナチス党政権下の強制収容所で看守をしていた女性が国外退去処分にされたそうです。ドイツ系ユダヤ人と結婚し、ユダヤ人の慈善施設に長年寄付金をしたり、すでに購買済みだった自分の墓石にはユダヤ教のシンボルであるダビデの星を刻んでいた。自分の死後、夫のそばに葬られることを望んでいたという。
それでも。。。
アメリカがまだナチス狩をしており、ドイツ系が多いシカゴでも、まだまだ元ナチスがいて、裁判があったりして、いろいろニュースになりますが、私がこの記事の中で一番びっくりしたのは、次の言葉を読んだときです。
ロサンゼルスにあるユダヤ人人権擁護組織、サイモンウィーゼンタールセンターの研究者の言葉で、「高齢のナチス協力者が、現在世界に危害を加えるとは到底思えない。しかし、彼らを見逃すことは、運良く罪を問われることなく逃れきることができれば、社会は見逃してくれるのだというメッセージを若い人々に送ることになる。どんなに高齢であっても、どんなに遠くに長いあいだいても、誰かがいつか必ず罪人を見つけだすと考えることが大事だ。」
いじり、いじめが国をあげて横行、金儲け主義のメディアが堂々とそれらを助長する陰湿な日本社会が必要としているのは、これだけ力強く、若い人に、そして社会に向けて、明確なメッセージを発せられる人、発せられる機能ではないでしょうか。人間存在と社会は非常に密接な関係にあるのに、日本というところは、その二つがあまりにも断絶しているーつまり個人があまりにも社会に対して無責任すぎる、という感覚を私はもっています。自分たちが、自分個人の行動が社会を作っていくのだ、という感覚がなさすぎる、お上がいいようにやってくれるのでは、「長いものには巻かれろ」式の依存心が強すぎるのではないでしょうか。確かに、権威への反抗・抵抗だけではアメリカでもやっていけません。しかし、両者のあいだでバランスをとろうとする感覚はあります。
日本には、個人―私、とお上・権威―公の両方が大事というコンセプト、バランス感覚が非常に希薄なのでは、と感じます。
11 男性の理想女性像、身長は母と一致
(2006年11月6日アサヒドットコムのニュースから)
男性は、理想の女性の身長を自分の母親の身長にあわせる傾向があることが、東京大大学院理学系研究科の研究グループによる調査で分かった。
「配偶者の選択と身長の関係」をテーマにした調査で、回答した大学生の平均年齢は19.3歳。平均身長は男性が171.7センチ、女性が158.3センチだった。
このうち、男性が答えた理想の女性の平均身長は160.9センチ、母親が小柄な場合は小柄な女性を、母親が大柄な場合は、大柄な女性を理想とする傾向が、統計的に有意に示された。
典型的な例では、いずれも身長が172センチの男子大学生二人のうち、母親の身長が153センチのAさんは、理想の女性の身長を157センチと答え、母親の身長が163センチのBさんが理想とする女性の身長は165センチだった。
一方、女性と父親については、男性と母親のような強い相関は見られなかった。理由は、日本の家庭で、父親が不在がちなことを反映しているのでは。。。
この記事を読んだ私の最初の反応は、日本トップの頭脳の東大の人たちって、何、暇なこと、してるねん、でした。(笑) まあそれでも、「配偶者の選択と身長の関係」なんて、人は本音を知っててもなかなか口にしないテーマを日本一の頭脳が調査してくれるなんて感激ものでもあります。(笑)で、日本トップの頭脳たちの調査の結果は、私がシンデレラ本で書いたとおりです。
1 とにかく男性にとって、理想の女性は、自分たちよりも背が低くなければならない。どうしてもこれは変えられないようですね。
2 私も本の中で書きましたけれど、まず教育が必要なのは男性なのですが、それにしても、男性のマザコンをいかに治すか、を考えねば、背の高い女性たちに新しい可能性が生まれないらしい、とは知りませんでした。
「配偶者の選択と身長の関係」といえば、なにやら、科学的?な調査に聞こえるかもしれませんが、要するに、男たるもの、どれだけマザコンか、を示しただけではないのでしょうか。くだらん。。
その上で、この東大の人たちに疑問の念を覚えたのは、女が父親の背を気にしないのは、父親が不在がちだったからでは、とちんぷんかんぷんのことを言ってるからです。これって、言い換えれば、日本の家庭では、母親がどんなに息子にべったりになるか、時には息子が母親を殺したいと思うほど憎むまで、べったりになるというみっともない状況を示唆しています。と同時に、女にとって、男の身長なんてどうでもいい(自分より背が低くなければ。。。と、私は本の中で書きました)、気になるのは「男の甲斐性のみ」という女の現実的な本性を完全無視してます。くだらん。。
この記事を読んで、つくづく思います。男が、自分のマザコンぶりを肯定し、女を支配コントロールしたいというオスの本能に突き動かされ、また社会がそんな男たちに牛耳られている限り、大きな女はまだまだ社会の偏見の目にさらされねばならないということです。新しい男性像とセクシュアリティ、それを創造・受容しようという人間と社会を創る教育が必要です。でもまあ、東大大学院の人たちがこの程度では、一般大衆にほんとの教育がいきわたることはありえないのかも。。
いじめ調査 − やる方が「悪い」は半数以下 希薄な罪の意識
(AOLニュース、2006年11月7日付)
いじめがあった時「いじめる方が悪い」と考える子供が中学、高校で半数にも満たないことが、民間団体の調査で分かった。またいじめを受けた際に相談できる相手を聞くと、「教師」はわずか19%で、「いない」と答えた子供は2割を超えた。文部科学省の統計報告がいじめ自殺をゼロとしてきた裏で、標的の子が罪の意識の希薄な子供に追い詰められた上、周囲の大人が十分対処できていない様子が浮かびあがった。
いじめをなくそうと呼びかけているNPO法人「ジェントルハートプロジェクト」(川崎市)が、過去3年間に講演活動で訪れた全国の小学校8校、中学校23校、高校5校の児童生徒約1万3000人を対象としたアンケートの結果をまとめた。
それによると、「いじめるほうが悪いと思うか」と聞かれ、「はい」と答えた小学生は6割を超えた。しかし、中学、高校生は4割台だった。「いじめられても仕方のない子はいるか」の問いに「いいえ」と答えたのは、小学生はかろうじて半数を超えたが、中学生では4割を切った。
一方、「いじめはなくせるか」の問いに「はい」と答えた比率は、学年が上になるほど少なくなる。「いじめを相談できる相手」は、「友達」(56%)が多く、親は39%にとどまった(複数回答)
また「周囲でいじめやそれに類する行為が今までにあった」と考える児童生徒は全体の82%に達し、いじめがまん延している実態がうかがえる。同NPO理事の小森さんは「年齢が上がるにつれ、いじめに対する慣れやあきらめが広がるようだ。優しい心で人とつながる方が心地よいということに気づいてほしい」と話す。(中略)
ただ、ごく少数だが、こんな感想もある。「いじめが悪いとは思いません。人が(いじめを)やるのもその人の個性だ」(公立小6年男子)
*
「そんな体では結婚できないね」「ボーイフレンドは見つからないね」「あ、男ものの靴をはいてる。。あはは。。」と言葉の暴力を受け続けてきた大足のシンデレラはやはり、「いじめ」の問題に目をつぶる気にはなれません。といっても、日本からのニュースを見ているだけで、今、現場にいるわけではないですから、あくまでもニュースを読んでの感想ということになりますが。。。
これまでいろいろ書いてきましたが、私が「日本」を見る視点はどうやら、明治以降、もしくは敗戦以降、西洋思想がいかに日本社会に根付き、日本人を変えたか、西洋思想は日本の風土にあってどういう風に本来の意味・形を変えたか、という問題意識に収斂するようです。つまり二つの異文化が衝突して、衝突した部分の変容ぶり、そこに身をおいた人間が、二つの文化からいかにかけ離れていくか、そのマージナル度が気になる、という感じです。
で、その視点から、この記事を読むと、以下の論点が浮かびました。
1 「いじめ」のネガティブ度 − 「日本人・日本社会考」でも書いてきましたが、学校といった強固な枠組みの中での、生徒という村人同士の足のひっぱりあい。それが「いじめ」でしょう。子供たちが自殺まで追い詰められる「いじめ」とは、日本社会がいかに内向きのエネルギーが渦巻いているか、そのネガティブさを示すものでしかありません。
2 「いじめ」は悪い、という社会規範を持たない人間 − 私はつねづね教育勅語を復活すべきだ、と思っていて、それを口にするたびに人に顔をしかめられます。そういうことが言えるのも、教育勅語をきっちり勉強していないせいだとはよくわかっているのですが。でも要するに、社会に一本筋を通す理念が必要だと思うわけです。難しい政治思想とその歴史はわかりませんが、敗戦で天皇は象徴となり、戦前の教育がまるで「悪」の塊―その中には教育勅語も含まれるーのように見なされ、占領軍が推すところの民主主義教育が推し進められたようですが、ひとつ決定的に失敗したのでは、と思うのは、占領軍の国アメリカはキリスト教という確固とした社会の骨組み・社会規範をもっていることです。確かに、キリスト教が教える規範に反発する動きも根強く、それがアメリカ文化をつくっていることも否めませんが、それはキリスト教が社会に根付いているからこそ、です。日本は、かつて教育勅語が教え、日本人がその身に刻みこんだ人間としての骨組み・社会規範を失い、戦後60年経っても、失ったままです。確固とした人間観、社会規範が教えられなかった戦後の「民主主義」教育で育った親たちが、次世代に社会規範が教えられるはずがありません。私の問いは、どうしたら社会に一本筋を通せる、どんな社会規範が日本社会に可能なのだろうか、です。キリスト教を土壌にした「民主主義」とは違う、また別の規範を理念にし、その理念を土壌にした「民主主義」を打ち立てる力と知恵、方策が日本人にはあるのだろうか、ということです。
3 それでも記事を読むと、小学生はまだまだまともな感覚をもっているようで、ほっとですけれど、その感覚が中学生や高校生になると希薄になっていくーその原因は、やはり学校システムに問題があるのでは、と思います。学校というこれまた権威がのさばる空間が聖域化していて、外部の声や力が及ばなくなっているのではないか、それが問題なのではないでしょうか。「いじめは悪いこと」と考える小さな子供たちを応援しなければなりません。学校にそれができないのなら、カウンセラーや警察やら自治体やら、客観的な力を行使できる外部の第3者とつながるパイプをもつ、もしくはもっと太くするべきです。
それなのに、記事やその他のニュースによると、二言目には、「相談できる人がいるか」―ああ教師がどうのこうの、親がどうのこうの、友達がどうのこうの、ばっかりです。。無力な同年代の友達に「相談」しても気晴らしにはなっても、なんの解決にもなりません。しょせん傷のなめあい、もしくはへたに噂を流されたりして、状況は悪化するだけかもしれません。教師といえば、自分に与えられた権威を守るのでせいいっぱいの人間も多いでしょうから、当てにならない(と私は、自分の経験から確信しています)、親に相談なんて、思春期に入った子供たちがするわけがない。。。となると、外部の第3者、つまり校長や教師に対峙できるだけの、子供を守る力がもっている人が必要になると思うのです。
4 論点2とも関連するのですが、「いじめは悪い」という社会規範を確立させるためには、その規範を破るものには罰が与えられるというシステムを作らねばなりません。それが規範が規範たるゆえでしょう。ところが日本の風土は、この罰を与える、ということを非常におっくうがる、いやがる社会だと私は見ています。とりわけ人間教育を行う学校現場ではそうらしい。というのは、私自身が、補修校で経験したからです。
ここには人間観も影響しているようです。アメリカの学校は規則だらけで、規則を破るとどうなるか、その結果がはっきりと出るようになっています。子供たちを、しつけねばならない「犬猫」と同じ、と考えているとも言えるのかもしれません。ところが、日本人は、子供をしつけねばならない動物的存在というよりは、「かわいい、かわいい」で子供を大目に見、「子供なんだから」できれいごとで収めようとする。どこかで読みましたが、アメリカでは、18になるまでは、できないことが多いけれど、18になると「自立」したで突き放す。日本はその反対で、子供の時は「子供なんだから」で何でもさせるけれど、大人になったら「大人なんだから、これしたらだめ、あれしたらだめ」になる、と。
日米が反対のベクトルをもっていることが教育現場で混乱を引き起こしているひとつの原因ではないでしょうか。つまり、学校で教えられる「民主主義」「個人」の理念がもつ人間観―これはアメリカ式ですーと、学校の外の社会がもっている人間観―これは日本式―が相反するということです。子供たちにしてみれば、自分の都合のいいように、二つの文化を操作できます。親のいうことを聞きたくないときは、ああ、個性だの、個人を尊重せよ、と。
で、それに対して、日本社会の枠組みの中にがっちりと組み込まれている親たちは、そういった中身からっぽの饒舌な理念に対抗する手段をもたない。それで、日本的な精神風土・構造が許す、なあなあでごまかそうとする。その精神風土は、この記事の中にもはっきりと出ています。アンケートをした団体の代表者の言葉―優しい心で人とつながる方が心地よいということに気づいてほしい、だって。。読んだときは、馬鹿じゃねえか、というのが私の気持ちでしたね。(笑)そういう美辞麗句を並べても、なんの力にもならないのです。 答えはただ一つー同級生をいじめているのがわかったら、いじめている人間をカウンセラーに送りこむ、学校にしばらくこさせないようにする、と、同級生が死に追いやられる以前に、いじめる側の問題点を洗い出し、「いじめ」といったネガティブな形で、自分の力(と本人は思いたがる)を誇示しなくてもいいように、いじめる人間を改造するシステムを持つべきなのです。
日本からのニュースを見ていると、いじめられた側のことばかりが強調されるようですが、問題は「いじめる」側にある、と発想を180度転換させるべきです。たとえば大足のシンデレラも、この年になって初めてわかって、本が書けたわけです。「男とは縁がないねえ」と笑われ、「いじめ」られたのは、大きな私が悪いのではなく、「いじめる」人間、いじめを許す社会が悪いのですから。
5 いじめるのも個性 ―少数だったとのことですが、この言葉を読んだとき愕然としました。「個性」−この言葉がこのような形で使われるとは。。。敗戦後60年、日本の風土土壌に新しい教育―つまりキリスト教を土台にした西欧の「民主主義」教育、人間教育を植えつけようとしても失敗、言葉だけが一人歩きして、日本を道を間違えたーと私に言える資格はないと思いますがー少なくとも非生産的な方向に導いているような気がします。上述した通り、日本は、頭が仕入れた西欧の概念と、身体が知っている日本の風土が生んだ概念のあいだで混乱している、というのが私の考えです。
1)
少数派なのだから、批判には値しないという声もあるでしょう。しかし、「回りと同じでなければならない」を強要する強固な枠組みの中で、多数派の言葉はそれなりに力をもっている、と簡単に信じてもいいものでしょうか。むしろ少数派のほうが本音を言っているのであり、人間の実態に近いのではないか、という可能性もなきにしもあらずでしょう。となると、「いじめるのも個性」と考える意識と混乱ぶりは恐ろしいものがあります。
2)
私は、長年、明治時代になって輸入され作られた言葉、たとえば「個人」「民主主義」「自由」「人権」もちろんこの場合の「個人」といった言葉が、日本の社会風土の中で、どういう風に本来の欧米社会で生まれた意味から逸脱しているか、それが日本社会や日本人にどんな影響を与えているか、といった問題意識をもってきました。学者じゃないので、むずかしいことはいえませんが、感覚的にそういう翻訳語は本来の意味から大きく逸脱している、言い換えれば、翻訳語が本来の意味をもって、日本社会に根付くことはありえない、もっと極端なことをいえば、「何も知らずにえらそうなことを言うな」と非難されるのも覚悟していえば、「個人」も「民主主義」も「自由」も「人権」も日本には存在しない、と考えています。
理論・思想を机上で学んで、頭でっかちになることは可能です。しかし、そういう概念が絶対に身体の一部となることはない、とまで思 って いるようです。
以前に、テレビの教育番組を見ていたときに、中学校の教師だかが、「授業中に教室を出ていく生徒の人権を認めなければならない」という発言をするのを聞いて、ものすごく腹が立ったことがあります。教室を出ていくのが人権かよ、あほか、お前それでも教師か、と思いましが、逆に、「人権」をそういう風にしか解釈できないのが日本社会なのだな、と理解しました。アメリカの日常生活で、「人権」といった言葉が気安く使われることはありません。使うのなら、訴訟を決意して、公的法的機関に訴えを起こすときでしょう。それだけ重い意味をもった、自分の存在そのものをかけた真剣勝負の言葉なのです。授業中に教室を出ていくのは、人権でも何でもなく、ただの生徒のルール違反にすぎません。それを教師自身が理解していないのですね。
いじめ問題こそまさしく人権問題だと私なんかは思うけれど、日本からのニュースを見ていると、「相談できる人がいるかいないか」をえらくしつこく問うけれど、人権問題だという意識はほとんど感じられません。
3)
この世界には、確かにいろんな人間がいます。「いじめる」のは、他人をいじめることでしか、自分の力を確認できない弱いネガティブな人間の性格であり、それは「個性」と呼べるものかもしれない。でも、それでは、その反対の個性、つまりいじめられたら、いじめるな、と反発・抵抗、かつ「いじめ」を目撃したら、それを教師や校長、もしくは公的機関に責任をもってしっかりと報告できる「個性」も大事にされ、認められ、受け入れられ、そして、そういう「個性」は奨励されるべきだと思います。それが民主主義というものではないでしょうか。
日本では、そういう個性は奨励されているのでしょうか。とんでもない。教師、校長、学校システム、そして社会全体が「事なかれ主義」、「長いものに巻かれろ」の強固な枠組みでがんじがらめになっています。そこでは、「個人」が尊重されることはなく、つまり「個性」が真の意味で受けいれられることがない社会です。「民主主義」とは「数が力」を意味するならば、内向きのネガティブなエネルギーが渦巻くところでは、「いじめる」人間が増えて「数は力」の民主主義を実践することはあっても、いじめられる弱い人間の個性は受けいられることはない、ということです。
真に「民主主義」が存在する社会なら、いじめられる人間や弱者を守ろうとする個人同士が結びついて、「いじめる」個性の力を転覆・排除してしまう可能性も与えられねばならないと思います。でも、日本からのニュースを見ている限り、そのような可能性は一切感じられない。ただただ、どうやったらいじめをなくせるか、といった、表層的な小手先の方法論に終始しているだけです。問うべきなのは、どうやったら「いじめる」ネガティブな力から逃れられる力を身につけ、エンパワーメントできるか、「いじめる」人間がもっているネガティブな力を、どうやったら他人に行使することなく、満足感とともに自滅させられるか、でしょう。
戦後60年、いや明治維新(1868年?)から数えて138年、まだ日本には、個人も民主主義も自由も人権もないし、これからも存在することはありえないような気がします。だいたい、福沢諭吉は「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」(?)のような、他国の異風土の人間が言ったことをしたり顔に祭りあげて訳しましたが、その輸入理念と、日本社会で生きる人の身体が骨の髄まで納得しているだろう「上を見たらきりがないから、下を見て暮せ、そして自分と自分の生活に満足しよう」というヒエラルキー意識とネガティブなエネルギーのあいだで、どのように折り合いをつけるか、つけようと努力しているのかを考えられたことはあるのでしょうか。
4)
今日だか昨日だかのニュースで、いじめる理由の最大の理由は「(相手が)力が弱いから、無抵抗だから」とありました。上にも書きましたが、いじめることでしか自分の力を確認できない小さく、哀れな人間たち。。そういう人間が学校で黙認され、培養され、社会に送りだされるのですね。
大足のシンデレラも、30年間を「無抵抗」のまま過ごして、寂しい思いはしましたが、まだ生きています。失った時間はもう戻ってはきませんが、やっぱり生きててよかったと思います。そう思えるときが必ず来る、と若い人に信じさせることができず、死に追いやる社会って何なんでしょうか。私のシンデレラ本にも書きましたが、存在せねばならない理由は何でしょうか。
5)
私は、戦前の教育を受けた親に育てらてた最後の世代だと思います。昭和3年生まれの両親は、17歳という一番感受性の強い時に敗戦を迎え、180度価値観が転換するという激動の時代を潜り抜けました。その親にずっと言われたことー「人は人、自分は自分」です。この言葉が、彼らが受けた戦前の教育から発せられたのか、それとも戦後、価値観が転換したときに、かれらが自分たちに言い聞かせた言葉なのか私にはわかりません。ただ今になってみれば、この言葉が、私がアメリカに生きていくうえで大きな力を発揮していると思います。「人は人、自分は自分」です。回りに迎合する必要なんかない。自分の信じる道を行けばいい。それは、「朱に交われば赤くなる」という諺の心にも通じていたように思います。そしてそれが、私が取材中に、戦前の教育を受けた日系二世から教えてもらった言葉、「ふ仰天地に恥じず」につながっていきます。
現代の日本で、こういう人間存在の核を突き通す言葉が聞かれることはあるのでしょうか。えせ「民主主義」が氾濫して、中身のない輸入語の定義だけが頭の中で踊っているのではないでしょうか。
私は、つくづく思っているのです。戦後の浮ついたえせ「民主主義」ではなく、戦前の教育を受けた人間こそが、ほんとうは世界に通用する力をもっているのではないか、と。戦前の教育には、日本社会の強固な枠組みを突破し、外向きのエネルギーをもてる人間哲学があったのではないか。だから、侵略戦争をひきおこしたのかも知れないけれど、これからは、国に侵略戦争の道を歩ませることなく、しかし人間教育として、教育勅語のような戦前の教育を見直すことは大事なのではないか、と。
女は見た目が10割 − 誰のために化粧をするのか
(平凡社新書 鈴木由加里)
子供に化粧を禁じる理論をたてることは可能かどうか疑問に思う。「子供のメイクは教育上よくない」という主張にしても、「子供の人権や自己決定権は? そもそも外見で差別をする社会なのだから、いじめにあったり容貌コンプレックスを抱くのであれば子供のメイクは仕方がないことではないか」と反論されてしまうだろう。(25ページ)
「可愛らしさ」は、無害な存在を演出する最強のイメージである。大人の価値観においても子供のそれにおいても、「可愛らしさ」の価値は変わらない。メイクする小中学生たちが意識しているのは、男子に受けることではなく、もっとぼんやりしたお友達集団の中で可愛らしくいることである。奇抜なメイクをして個性を発揮したいとは思わないらしい。集団の中で常に「可愛らしく」して、無害さを演出することで、集団の中で自分の居場所を得るという感覚にならされてしまったら、目の前にひどく異質な存在や、可愛くない考え方をするタイプの子や個性的な趣味のある子が現れたら、排除するか無視する方向に流れないだろうか。「キレイ」でないものや多様なものに対する視点を養うことはできるのだろうか。(32ページ)
現代では、「若く」「美しい」ということは、価値のあることである。「美しさ」を求める努力は大切なこと。現代社会において、美しさを求めることは善である。(中略)ミニスカートをはこうが、赤い口紅をつけようが、それは自己実現の一環であり、「美しさ」を求めることは自分らしくあるための努力、自己イメージの演出であり、男性社会の差別の構造とは関係ない。たとえそれが特定の誰かの気を惹くためであろうとも究極的には自分のためのものなのだ、という意識は、おそらく多くの女性たちに引き受けられているものだと思う。「女らしさ」と「美しさ」は同等の概念ではなく、別種のものなのだ。(43−45ページ)
女性が美しくあることは、社会的にも倫理的にも正しいというメッセージは、化粧品会社のCMだけでなく、さまざまな情報の中で繰り返し語られている。そこから導きだされる価値観は、「美しさ」を目指さない女性は努力不足であり、不当な扱いを受けても仕方がない、というものである。言い換えれば、女性はいつまでも「若く、美しく」なければ、幸福も肯定的評価も得られないというものである。(中略)女と生まれて「キレイ」を目指さないのは前向きに生きていない、「女」から降りている、積極的に生きていない。。。というスローガンにみえる時がある。それゆえ、この表現を借りて、女性が美しさを目指さなくてはならないというイデオロギーを「キレイ・イデオロギー」と呼びたいと思う。(49ページ)
彼女は、自分の内面が顔ににじみ出ることに恐れを抱いていたという。それゆえ、顔が本来の自分とは離れた美しさを持つことは安心であり喜びだという。自分らしさを取り戻すために、自分が前向きになるために美容整形は役立つのだ、という美容外科医の主張を否定(98ページ)
顔や身体はその人の本当の姿を示しているはずだ、示していなくてはならない、という価値観が非常に強い社会でもある。(101ページ)
高齢者への美容講座にしても、メイクアップをすることで自分の身体イメージと向き合い、社会的存在として自分を再び位置づける回路を開いてくれるものだ。(145ページ)
なかには、よりキレイにすることは自分には分不相応である、と思いこんでいるタイプもいる。こうなってくると身体醜形恐怖の領域となり。。(中略)その生育史のなかで自己肯定にいたるための機会に恵まれてこなかったということが言えるかもしれない。(164−65ページ)
男うけする「ナチュラル」のイメージを具体化してみると、。。(中略)相手を萎縮させてしまうような派手な美しさを徹底的に避ける(169ページ)
*
著者自身が、高校生のときから化粧に興味をもっていらしたようですから、大足のシンデレラとは別世界を生きてこられた人です。題名に惹かれて(というか、腹を立ててー笑)読みはじめましたが、すぐに自分とは縁のなかった世界だと納得、斜め読みとなりました。それでもちょっと気がついた言葉を書きとめてみました。
著者の意識のなかには、女というセクシュアリティそのものを否定される、というコンセプトはまったく存在しないようです。また、外見で判断する社会そのものを批判しようとはしない。。社会の要求にいかに自分を合わせるか、合わせながらもいかに自分らしさを「小出し」しようか、を説いているわけですから、日本で生きる典型的日本人の本ということになるでしょうか。(笑)
確かに、大足のシンデレラの過去30年は、まさしく「女と生まれて「キレイ」を目指さないのは前向きに生きていない、「女」から降りている、積極的に生きていない」という時間でした。化粧とは一応「礼儀」ぐらいだったと思います。「キレイ」をめざしたことなど一度もありませんでした。自分は女ではない、と思っていましたから、「キレイ」になる、なんて必要なかったわけです。
また最近、シンデレラ本を読みかけてくれた男性から、「美しさ」を目指さない女性は努力不足であり、不当な扱いを受けても仕方がない」とまったく同じ言葉を聞いたこともあり、その時は道の遠きを思いました。(なおその男性は、シンデレラ本は最初の10ページぐらいで読めなくなったようですー笑)
外見で差別する社会―外見をよりよく変えられる人はいいですけれど、体が大きいのは変えられません。化粧とは問題設定が違いますが、それでも、読んでよかったな、と思ったのは、女らしさと美しさとは別だ、と読んだことです。はあ、ということは、身体が大きくて、「女らしく」なくても、美しさはめざしてもいいわけだ。。。まあ、大きな女が美しくなると、男性はますます萎縮しちゃうわけで、ますます男ウケしませんなあ。。。と言いながら、もう私も50を過ぎたんだった、何を今更。。。(笑)それにしても、本を読んでびっくりしました、女性たち、キレイになるために、ものすごい投資をし、努力してるんですね。感心しました。自分の身体イメージと真正面にぶつかりあえるのがメイクアップなら、一生に一度、私も“ちょっとだけ”やってみようかな。。大足のシンデレラは、生まれてはじめて、化粧で「可愛い」無害な存在になれるのでしょうか。(笑)
男性は55歳、身長236センチ。ギネス記録にも登録されているとか。
女性は34歳。身長7フィート7インチ。かつてはサーカスにいたが、今は電球取替えのキャリアを探しているとあります。意地悪さがありますね。でもこの手のジャーナリズムをコントロールすることはできないでしょう。(悲)
辺見 庸著「いまここに在ることの恥」(毎日新聞社刊)より
(憲法について)
「国民の総意」というフィクションも奇妙です。あるいは無言の恫喝。われわれは「総意」という言葉をいつも自然に受け入れてきた。総意のなかにわれわれ個人の主体を責任をもって入れ込むことなしに、なしくずし的に事態を受け入れてきた。異論というものに耳を傾けず、例外を駆逐してきた。それがこの国独特の世論醸成の方法です。熾烈な議論で世論を構築したのではなく、なんとなく空気を醸していく。そうしたやりかたは、いまも続いている。
ある思想家は「日本のファシズムというのは、ナチスも羨んだぐらいのファシズムなんだ」といいました。かならずしも上からの強権発動によらないですむ、全民的協調主義。あらかじめのファシズム。それはいまも続いている。ウンベルト・エーコはたしかに「ファシズムには、いかなる精髄もなく、単独の本質さえありません」というけれども、日本にはたぶん、ファシズムの精髄ないし精華があるのです。なぜかというと、日本のファシズムは純粋ファシズムだからです。それは上からのファシズムではない。私たちみんなの、下からのファシズムでもあるからです。(120−121ページ)
(皇族の身体にかかわること)
特殊日本の思想、文化の暗部でもっとも微妙なのは身体なのです。天皇については、いわば形而上的にはそれなりのことは書いてもいいのです。しかし、天皇の身体について、皇族の身体にかかわるテーマを小説などに書いたとしたら、その刊行を簡単に引き受ける出版社はまずないと思います。(123ページ)
(外在する視えない暴力装置と内面の抑止メカニズム)
暴力組織は外在するものだけでしょうか。私はそうは思わないのです。それは、じつはわれわれの内面の抑止機制、内面の抑止メカニズムと関係がある。この監視社会は体外のカメラが24時間われわれを見張っているだけではなく、われわれ自身がわれわれの挙動を絶えず監視してもいます。つまり、外部の視えない暴力組織と、われわれの自己体内の神経細胞の間には、意外な共犯関係があるといわざるをえない。そしてそこには、私の表現によれば(無期限の視えない実定法)が伏在していると思うのです。(127ページ)
*
むずかしい政治のこと、また天皇の身体についての言説がどうしてタブーになるのか私にはわかりませんが、大足のシンデレラが通ってきた道、また悩みをうちあけようとでもすると、他者が向ける冷たい言葉や視線、態度の根拠、そして当事者同士が傷をなめあい、処世術だけで生きることを強制し、悩みの再生産を止めようとはしない強固な枠組み社会の構造とは、こういうことなんだと思いました。つまり日本はファシズム社会なのだ、ということです。それも、みんなが無意識に同意しているファシズム。だからファシズムだということすら意識していない、大勢に逆らえば恐ろしい報復が大量に自然発生するこわ〜〜〜い社会です。で、そのファシズムに加担しているのがメディアですね。辺見さんは、同書の中でメディアを「糞バエ」と呼んでいました。同意します。
魚の世界
ある日、日本からのニュースを見ていました。マーケットで売られる魚にも基準の大きさというのがあるそうです。それ以外は売れないそうです。
あじは22−23センチ、150グラム。さんまは30センチぐらいだそうです。なぜそれ以外の大きいのや小さいのは売れないか、というと、マーケットで売られるときのパッケージにサイズがあるわけで、パックするときの効率のよさ、消費者にとってはレンジの大きさにあわせた使いやすさ、が問われるそうです。それで、売れない魚は売れるように、すり身に加工されて、「パック」されてマーケットに並べられるそうです。
いやですねえ。。すべてが、人間的交流の少なくなっているスーパーマーケットでの効率が最優先されて、魚にも基準の大きさなどを設けるなんて。昔、よく行った近所の市場の風景が懐かしいです。おじさん、おばさんが声をからして、「ほらほら、今日はいい魚が入ってるよ、どお、買ってってよ」って、声をかけてくれる市場。市場の店先にちょっと斜めになった濡れた木の台に並べられる魚には、基準の大きさなんてなかったと思いますけどね。自分が食べたい大きさを選んで、「じゃあ、これちょうだい」と言うと、おじさんやおばさんが、「よっしゃ、おおきに」と新聞紙に包んでくれました。あれが本来の買い物、経済活動の姿であるべきじゃないでしょうか。人も魚も同じ「いのち」をわけあって生きてるわけで、スーパーは、魚の大きさに合わせたパッケージを作るべきだと思います。基準とやらの大きさに合わせて、「いのち」を選別するべきではないです。そういうことに配慮できるのが、豊かな文化のある社会と言えるのではないでしょうか。 魚は経済的効率にあわせて選別、排除されても文句を言いませんが、「大足のシンデレラ」たちは声をあげるべきなのです。
皇太子妃の靴
新聞広告を見ていたら、雑誌AERA2007年2月5日増大号の見出しに、こんなものがありました。
“ 東宮の深層 皇太子夫妻「本当の仲」 。。。。高くなる雅子さまのヒール、外出先ではスッスッと先に。。。。”
なにやら、いろいろほかにも書いてありましたが、私が気になったのはただ一つ、「高くなるヒール」の部分です。(笑) これって、「結婚当初はおとなしく、皇太子より3歩下がって歩いていた、下がって歩くのは、もちろん旦那様への“従順”を表明する伝統的態度だが、皇太子の真横に並んで、皇太子と背比べになるのを避ける目的もあったかも。しかし、最近は、皇太子より背が高く見えようとも気にもせずに、堂々と高いヒールをはき、さっさと歩き、自分を主張しはじめた、これって、皇太子を見限った」ようにも見えるから、「本当の仲」はどうなの、と勘ぐりたくなるって感じでしょうかあ。。(笑) 「高くなる」と現在・未来進行形であるところが、世間が暗黙に合意していると考えられる、背の高さに託された女への気持ちを表現しているような気がします。要するに、大きくなろうとする女に対する世間の目、ましてや男より大きくなることを厭わない女って、不仲説? が生まれるほど、男の気持ちに頓着しない「いやな女」という意味???やはり皇太子の器の大きさが鍵になるかも、そしてそれは、今後の日本男子の行く末を占うものになるのかも。。こうなってくると、高いヒールの靴をはこうとする雅子さんより、皇太子のほうを応援したくなってきました。(笑)
半鐘泥棒
「てやんでぇ、この半鐘泥棒が!」
とは背の高い人相手の江戸っ子のタンカ
だそうです。(2007年2月23日付「北米毎日新聞」)
関西人の私は、こういう言葉は聞いたことがなかったので、ちょっと新鮮?!に感じられました。背の高い人用のタンカかあ。。。背の低い人用、普通サイズの人用とかあるのでしょうかあ。。(笑)
世界一背が高い男たち
シカゴトリビューン紙2007年3月19日付に写真が出ていましたので、紹介します。この人は、ここで以前に紹介した人でしょうか。キャプションによると、内陸モンゴル出身の7フィート9インチのBao Xishunさんが、5フィート6インチ(私より低い!!!)Xia Shujian さんと、数日前に結婚したとか。「幸せの高さーThe height of happiness」となってます。
イリノイにも、1920年代に世界一背が高い男性がいました。その人の靴が、小さな町の博物館にのこされていました。 若くして亡くなりましたが(もちろん結婚をすることもなく)、家族はその人の持ち物をなるべく早く処分されたそうで、ほとんど残っていないそうです。見世物にされたのではないか、もうこれ以上されるのはいやだ、という思いがあったのでは、と私は思ってます。
それにしても、世界一背が高い男がいたら、世界一背が高い女の人もいるわけで、今、どこでどうされてるのでしょうか。結婚されてるのでしょうか。メディアにも出ませんね。。(先に紹介した中国女性は世界一高いのでしょうか。。)(笑)
背の高い人は、男性のほうがメディアに出やすいということは、やはり男は大きいほうがいい、という刷り込みがあるからではないでしょうか。背の高い人は、男も女も同じように、メディアに出るようになったら男女対等になった、ということだと思うのですが。。。背が高い、ということは、女にとっては、まだまだ「恥ずかしい」ことなのでは。。。
2007/07/14付けの日米タイムズより
世界一長身男性が披露宴
中国、特注ベッドは3メートル
(北京13日共同) 中国内モンゴル自治区のオルドス高原で12日、身長236センチで「世界一の長身」とギネスブックに認定された同自治区赤峰市の男性、胞(漢字がないです、左の偏?がサカナの漢字。。笑)喜順さん(56)と、身長168センチの夏淑娼さん(28)の結婚披露宴が行われ、500人に上る出席者が“異色のカップル”の門出を祝福した。新華社電などが伝えた。
二人は今年3月に結婚。胞さんはこの日、99人の若者と馬49頭に伴われ、披露宴会場のパオ(モンゴル風テント)に到着。絹製の青い民族衣装に身を包み、背丈が胞さんのひじまでしか届かない夏さんと笑顔で披露宴に臨んだ。
二人が近く入居する新居は、天井までの高さが3メートルで、ベッドは長さ2.8メートル、幅2.2メートルの特別サイズという。
あのお、ですね、胞さん、どこからお金もらってるの。。あんたの仕事は何???中国政府が特注ベッドを作ってくれたの??あんたは、国威発揚の道具??毒入り歯磨き粉やら食品問題への国際的批判を、こんなつまらぬニュースでごまかそうというわけ??? 中国もまだまだたいしたことないね。。ちょっとモンゴルまで行って、実際のところ見てこなくちゃ。。結婚もやらせだったりして。。(笑)
( 追加 2)
2007/08/11付けの日米タイムズより
身長世界一、257センチ
ウクライナ人をギネス認定
(モスクワ8日共同) AP通信によると、英国のギネス・ワールド・レコードは8日、ウクライナの男性レオニード・スタドニクさん(37)を世界一の長身と認定した。APは昨年計測したスタドニクさんの身長を257センチと報道。これまで世界一とされていたのは、中国内モンゴル自治区の男性、鞄喜順さんの236センチだった。スタドニクさんはウクライナ北西部に住む元獣医師。母と同居し、家事や庭の手入れをしている。脳の手術を受けた後、14歳の時から成長が加速したという。
要するに、病気?なんでしょうか。それはそうと、世界一背の高い女の人はどこでしょうか。。なんで男ばっかり報道されるのか。このメディアのギャップこそが、背の高い女に対する偏見を実証?しているような気がします。。。「身長世界一」などというつまらぬことが話題になるのなら、世界一背の高い女の人、も報道するべきでは。。というか、身長世界一とは男女含めてということかな。。となると、やはり男性だけになるんでしょうねえ。。
ニュースになった「和田アキ子」さん
(2007年9月15日付 北米毎日新聞より)
長野県警が一般向けに配信している防犯メールの中で、不審者の特徴を歌手の和田アキ子さんに例えていたことが14日、分かった。県警は13日、「適切な表現ではなかった」として、おわびのメールを配信した。
問題のメールは、県警の不審者情報配信システム「ライボくん安心メール」で、3日に配信した。8月31日に同県箕輪町で、帰宅中の女子高校生に対し、ワンピースで女装した男が下半身を露出したとして注意を呼びかけていた。その際、男の特徴を「和田アキ子風の黒色短髪」などと表現していた。
県警地域安全推進室によると、利用者から「不適切では」と抗議が寄せられたという。同室は「今後は表現に注意したい」としている。
和田さんの所属事務所は「警察内の話。コメントする立場にない」として抗議する考えはないという。
なぜ和田アキ子に例えたか、ですけど、やはり不審者が男だったからでしょうね。要するに女の格好をしてるけど、大きいから男みたい?という意味? 日本語がおかしい、というか意味不明と思ったのは、「和田アキ子風の黒色短髪」の部分。これって、“和田アキ子風”が黒色短髪を形容するのではなく、和田アキ子風の体型で、髪は黒で短髪ということでしょうか。もしそうなら、和田アキ子風と書くのではなく、身長何センチと書けばいいわけで。。それとも、和田アキ子さんの髪型はそんなに特徴のあるものなのか。(私には分かりませんー笑) 警察も、こんな調子で捜査ができるのかな??(笑)あと一種の嫌悪感を覚えたのは、所属事務所の態度ですね。「警察内の話」だから抗議しない。。普通の女優さんなら、イメージを落とす、とかで、当然抗議する性格のものだと私なんかは思うけれど、どっちかといえば、下半身を露出するような男を表現するのに使われる、という部分をむしろ面白おかしく「売り」に使おうとする戦略が感じられる。。エンタメ世界とは、そこまで自分を物笑いの種にして「売らねば」ならない世界なのでしょうか。「買う」人間もレベルが低いということかも、ですが、でも、抗議したのは「買う」人ですからよかったな、と。事務所側としては、権力にいちゃもんつけたら、仕事がしにくくなる、みたいな計算も働くのでしょう。タレントが警察のお世話になる、ということもあるでしょうし。。(笑)それはそうと、「和田アキ子」を使うことに対する抗議といえば、私が「和田アキ子みたい」はほめ言葉?という記事を書いたときに、編集部に寄せられた、和田アキ子さんの人権を侵害しているのでは、というクレームが来たことを思いだします。今回の抗議も同じ性格をもっているような気がしますが、あの抗議以来、編集部からの原稿依頼がとまったということは、やはり個人名を出すことの人権侵害が認められたということだろうなあ。。つまり、メディアに個人名が載ると、人権侵害が認められるわけですが、日常生活でのありふれた時間における口頭による人権侵害―つまり言われて傷つく人間の人権―はなかなか認められがたい、ということかも。。
神戸大学に美容外科の専門診療科設立
2007年9月27日、ニュースが流れていました。社会の高齢化に伴い、美容外科は若い女性だけでなく、中高年の生活の質を高める医療として需要が高まっている。老化と闘うアンチエージング医学の拠点作りを目指すそうな。10月1日から診療がはじまるとか。中高年のしわやたるみをとり、容姿に自信を取り戻すだけで、生活や心の張りも戻るとか。高齢者にとって、大きな意味を持つ。。これまでは形成外科の経験をもとに、試行錯誤で技術や知識を身につけ、技術水準は医者のあいだで個人差が大きく、医療被害にもつながっていた。診療だけではなく、手術や処置の安全性、リスクと効果など、美容外科に対する適切な情報を社会に提供する。。問い合わせ 078−382−5111
まずショックだったのが、神戸大学だったことですね。まだ私立の大学だったらわかるような気がする。でも国民の税金を使って、美容外科とは。。という思いがあります。まず、美容外科について勉強しなければなりませんが。。しかし、形成外科の必要性はもちろん認めるけれど、美容外科は、機能的には問題ないわけですよね。つまり「見かけ」のための外科です。「見かけの良さ」の必要性を国立大学が推進しようとするのか、という思いがあります。中高年の生活の質、アンチエージング医学。。。身体が大きいことを悩んでいる、と言えば、人は、そんなことで悩むなんて、障害者のことを考えてみれば、みたいな言い方をされた。それは、身体が大きいことは「機能」には問題がないのだから、「機能不全」で不便な状況に置かれる障害者と比べたら幸せだ、みたいな発想をするくせに、なぜ「美容外科」には反対しないのだろうか。美容だって機能とは関係ないではないか。美容外科の必要性を認める人は、背が高くていろいろ言われて悩んだ人間の気持ちも受け入れるべきである。美容外科を売り物にするテレビ番組は人気があって、美容が金もうけになるからではないだろうか。つまり、それは「美容」−たとえば骨を削るとか、二重まぶたにするとか、脂肪を吸引するとか、豊胸手術をするとかーにお金を使う層とできない層に社会を分化させるものである。で、そういう格差を生むことを、国立大学がするということが、私には信じられない。そして、最後に一つー美容外科では背を低くできないんですよね。 お金を使って、医療事故の危険性をおかしてまで、「見かけをよく」したいなんて思わない。アンチエージングだかなんだが知らないけれど、1ケ所を変えたら、全体のバランスがくずれて、他の場所もいじらなければならなくなるわけで。。美容外科業界の人間は、そのあたりも見越して、「中高年の生活の質を高める」とかなんとか抽象的なきれいごとを並べて、美容外科を煽っているのでは。。社会に欠落しているのは、精神と肉体のバランスをとるための哲学だと私は思う。あああ。。
経済産業省の体格調査
2007年10月2日のaolニュースー経済産業省が12年ぶりに実施した日本人の体格調査では、40歳代では、女性の身長が2.6センチ伸びて157.1センチ、体重1.3キロ減の52.8キロ、20歳代、30歳代、50歳代でもスリム化しているのに対し、男性は40歳で2.8センチ伸びて170.1センチ、4.0キロ増の69.8キロだそうで、30歳以降すべての年代で体重は増えているそうな。
ニュースを読んだ最初の感想―なんでこう馬鹿なんだ。(笑) どうして国がそういう体格調査をしなければならないのだろう。それもなぜ経済産業省が。日本経済と日本人の体格とどんな関係があるのだろう。学校の身体検査ですら必要ないと思うのに、まさか経済産業省がそんな体格調査をしているなどとは思いもよらなかった。調査の目的は絶対にチェックしなければ。。それにしても国がこういう調査をして、「平均値」などを出すから、平均はどのあたり、というコンセプト・枠組みができあがり、その枠組みからはずれたものを「日本人離れした体格」などと、褒めているのか揶揄しているのかわからない、平均以外を排除するような非常に中途半端な言葉を平気で口にするメンタリティを生み出すのだと思う。アメリカから見ていると、こういう風土は非常に気分が悪い。できるものなら、文部科学省もチェックして、身体検査の目的を聞かねばならない。そして、目的と意義に納得できないのなら、「平均」を出すためだけの身体検査、体格調査なら、なくすように働きかけをする第一歩を踏み出したいものだ。
経済産業省に、調査の目的・意義、歴史を問い合わせた。ていねいに返答くださったので、記録として残します。
お問い合せ頂きました調査は、「「size-JPN 2004-2006」調査結果について」として、10月1日に報道発表を行いました。
人体寸法・形状データは、国民の生活環境を取り巻く、あらゆる工業製品の寸法や形状を決定するための最も基本となるデータです。
これまでにも、国等により、昭和40年代〜50年代に衣料JIS基準作成のための「日本人の体格調査」(通商産業省工業技術院(当時))や、1992年度〜1994年度の日本人34,000人の人体寸法・形状計測事業((社)人間生活工学研究センター
(HQL))等が実施されました。
これらの計測から10数年が経過しており、この間に、国民体格に変化が起こっている可能性があることから、今回の調査を実施致しました。
調査においては、2004年度から2006年度に渡って、約7,000人の人体寸法・形状計測を実施し、最新の人体寸法・形状データを取得しました。
以上のような背景・目的により、本調査を実施し、この度発表いたしました。
とのこと。製造業のために必要なんだね。。ちょっと納得。。
福田首相への手紙
福田首相殿
デイ多佳子と申します。
アメリカ在住のフリーランスライターです。2005年に「大きい女の存在証明―もしシンデレラの足が大きかったら」(彩流社)という本を刊行して以来、大きい女性に対する偏見差別的言動を日本社会から少しでもなくしたいと、「トールクラブひまわりの会」という掲示板を立ち上げ、さまざまな女性たちと意見交換してきました。
大きい女性たちは基本的に、「大きいね」「でかいなあ」「身長何センチ」「バスケットの選手してたの」「彼氏、見つからないね」といった紋切型の声をかけられることに、長年心を傷つけられてきています。いろいろ調べてみますと、背の低い女性たちは女性たちで、「小さいね」と言われることにいやな思いをしてきているようです。つまり、他者の身体的特徴をとらえて、挨拶代わりにコメントするのは、言葉の暴力である、と私は考えます。
しかし、日本社会では、まだまだこの「言葉の暴力」という認識がほとんどないようです。そのことを実感したのが、首相が今月23日、首相官邸で「さくらの女王」である長身のエミリー・リトルさんと会われた際に、「リトル? ビッグだね」とコメントされたという新聞記事を読んだときです。
首相にしてみれば、ジョークだったかも知れませんが(その視点で記者も記事を書いてます)、アメリカ在住の人間の目で見ると、一国の長とは思えない幼稚な、マナー知らずの言動となります。オヤジギャグ文化は、日本では“笑いとばす”だけのものでしょうが、その“笑い”は国際的な普遍性はもたず、海外では、眉をしかめさせる性格をもつ可能性もあることをご理解願いたいと思います。私が懸念するのは、首相のそのような言動が、メディアにおおっぴらに流れることで、挨拶代わりに他人の身体的特徴に言及するのは正しいことだ、と国民に更なる刷り込みをし、長年、他者の心ない言葉に傷ついてきた人々の悩みが、世代を超えて再生産され続けることです。
本人に向かって、身体的特徴に言及することは間違っています。言われ続ける人間が人格をゆがめてしまう危険性もある、セクハラ同様の言葉の暴力です。
日本政府は、少子化社会と将来の労働力不足を前にして、外国人や留学生の受け入れをさらに積極的に進めようとしていると聞いています。これからどのような日本社会を作っていくのか、明確なビジョンをたてた上で、この問題を考えていただければ幸いです。
なお、最後になりましたが、ビッグは横幅のある体型を指します。記事の写真で見る限り、リトルさんはほっそりとした体型だったようですね。その意味でも、「リトル?ビッグだね」というおどけは、ジョークにすらならなかった、と私は考えます。まっすぐに、「あなたのような美しい人にお会いできてうれしいです」と、堂々と言えるセンスを磨かれたらいかがでしょうか。
デイ多佳子