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視線の開放感

 

2007年6月、とうとうお会いしてきました。「大きい女の存在証明」を読んでくださった方々と神戸で。。すごくうれしかったです。日本各地から神戸まではるばる来てくださった方々に心から感謝です。

 

お1人でも会えたらうれしい、と思ってました。当初、本を読んで連絡をくださった方々の中から、6人の方を予定していましたが、キャンセルとなった人もいて、4人の方が来てくださいました。

 

Text Box:  待ち合わせは駅の喫茶店にて。会ったとたん、すぐお互いが分かって、まるでしばらくぶりに会う旧知のように感じられたのは、やはり長年同じ思いを共有してきたという安心感があったからではないでしょうか。とりとめもないぺちゃくちゃのおしゃべりがすごく楽しかったです。ある人は、会ったとたん「大きいですねえ。何センチですか。」と聞かれなかったのは初めて、とおっしゃいました。同感。。聞かれる心配がない、という安心感、前もって身構えなくてもいいという解放感は人生初めてだったように思います。

 

集まりについて、私が最初に考えていたことー背の高い女ばかりが複数集まるなんてことは滅多にーたぶんまったくと言っていいほどーないのだから、私たちを見る他人の目を観察しておこう、でした。ところが、二人で、もしくは4人でぺちゃぺちゃしゃべっていると、他人の目がぜんぜん気にならないのです。というか、誰も私たちをしつこくじろじろ見ていなかったような気がする、むしろ、別世界の人間たちという感覚で無視されていたような気がします。ただ一度だけ、エレベーターホールで、私たちの前にいた若い女性が振り返ってじろじろ見ていたなあ。。やはり、「普通」の人に言われるように、これまでは“自意識過剰”だったのでしょうか。

 

そうかも知れない、という気持ちがふとよぎります。でも、これははっきり言えると思います、「数は力だ」と。いつもは、一対不特定多数という形です。視線は常に見下ろす形で、いつも自分は1人、という感覚が刷り込まれます。友達と話していても同じ。ところが、今回は違いました。視線が同じ高さなのです。見下ろさなくてもいい。自分と同じ高さ。。ああ、なんという自由!でしょうか。もう自分は1人ではない、という安心感が身体に染み透っていったのです。

 

そう、これだ!、と思いました。本を読んでくださった人たちの中には、いろんな人がいました。1人で偏見や他人の目、無神経な言葉をはねかえそうとし、はねかえすすべと知恵を獲得した人もいらっしゃるようでした。すばらしいことです。でもこの視線の安心感、開放感は、まだ未知の方も数多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

ここシカゴで「トールクラブ」の取材をしたとき、ゲイルという黒人女性が言った言葉の意味がやっとわかりました。トールクラブに入ってよかった理由のひとつに、ゲイルは「eyes」と言ったのでした。ゲイルは私が見上げるほど背が高かったから、クラブで彼女と同じ視線の高さをもつ人に会うことがText Box:  たまらなく楽しみだったのでしょう。

 

「普通」の人にとっては、回りには自分より背の高い人もいれば、背の低い人もいるー自分は多様性の海に浮かんでいる一点にすぎないわけです。一つの見方、視点に束縛されないその自由な身体が、きままにかつ無意識に「大きいですねえ、何センチですか」といった言葉を私たちに向かって吐かせてきたのかもしれない。でも、私たちは、「多様性の海」に浮かんだことはほとんどありませんでした。いつだって他人を見下ろし、人より「大きい」。。。いつも“孤独”で、一方的な視線―つまり他人からの見上げる視線、もしくは自分の見下ろす視線のみに束縛される存在だったのです。

 

でも、その孤独感、これまで自分たちを縛ってきた一方的な視点が仲間が集まることで消えました。「私たちが“普通”」という世界を獲得したのです。それはわずか半日の経験でした。でも、その半日がなんと楽しかったことか。。仲間がいるという楽しさと開放感。。。生まれてはじめて経験した感覚でした。

 

私たちの背の高さは、私たち自身の目によって、やっと少しだけ相対化されたのです。見下ろすだけではなく、「同じ」という視点を得たのです。世界が広がったのです。ああ、まったく予想だにしていなかった結果と何にもかえがたい、今まで知らなかったすばらしい感覚でした。あらためて神戸まで出て来てくださった方々に感謝しています。

 

Text Box:  仲間のつどいは必要です。自分の世界が広がるのですから。                                      

                                                                          

もしかして仲間の集まりを、まるで「被害者意識にからみとられた、くらあい人たちが自分たちで傷のなめあいをするくらあい場」と考える当事者もいるかも知れません。でも今回、私ははっきりと学びました。それは、「普通」という特権階級の第三者たちが無意識にもっているかもしれない私たちに対する一種の“優越感”にも似た「格差感」の目をとりこんだ、もしくは想像している、強がってはいるけれどほんとは“哀しい”人の気持ちだと。自分を自分で「普通」にすりかえても、結局それは、自分から“逃げる”ことであり、どこまで“逃げ”ても、ほんとの自分らしさを獲得することはできないだろうと。

 

もしかして、そういう人じゃないかなあ。近い将来、自分が見上げるような人に出会ったら、「大きいですねえ、何センチですか」といった言葉を平気で投げかけられるのは。。。だって自分も言われてきたもん、という自己正当化の声が聞こえてくるようです。ああ、いやだあ。。(笑)

 

そんな人たちに知ってもらいたいなあ。。。視線が同じ高さという自由の感覚、開放感を。これだけは、自分だけでは手に入らないですよ。本質的な力を持っているのは、頭が考える理屈ではありません。言葉に表現しがたい身体の経験です。

 

神戸での半日、私たちはよくしゃべり、笑いました。みんなで、靴屋の大きい靴コーナーに行くのは楽しかったです。いつもは、自分ひとりでこそこそと、まるで何か悪いことでもしているかのように行ってましたから。「あほの大足」という言葉が染み付いた身体を無理やりひきづっていくのは、心に大きな負担となりました。そして、その大きい靴コーナーで靴を探している知らない女性を見かけると、まるで“恥ずかしい”自分を見つけたかのように、心が落ち着かなかったのを覚えています。

 

あの日の靴屋のおじさん、大きい靴が3足も一度に売れて、すごくうれしかったのでは(笑) 私たちが店を出るとき、わざわざ靴の入った袋をもってくれて、店先まで見送りに来てくれましたよ。靴屋であんなVIPの扱いを受けたのは生まれてはじめてでした。(笑)

 

生まれてはじめての経験だらけの神戸での半日でした。もう一度、ご縁に感謝しています。またお会いして、わいわいお話ができますように。。。

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