2) 30代 カリフォルニア時代 (1986・8−1992・7)
1986年8月に、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に進んだ配偶者といっしょに渡米、湾を隔てて、サンフランシスコ対岸のバークレーの学生寮に住みはじめました。その年の12月には娘が生まれました。はじめてのアメリカ生活と出産・育児、自分がこれからアメリカでどんな仕事をして生き抜いていくのか、いろんな思いが錯綜した時代でした。渡米して3年のあいだは車も運転できず、子供を乳母車に乗せて、バークレーのあっちこっちを歩きまわったものです。仕事は、渡米前に神戸ではじめていた日本語教師の仕事を続けようと、あっちこっちに履歴書を送り、ばたばたかけずり回りました。その一方、渡米1年後の1987年9月から、サンフランシスコ州立大学の大学院に進みましたから、母親業に日本語教師、かつ大学院生と余裕のない、乾ききったかつかつした時代でした。朝の4時まで大学院のペーパー書きに追われて、途中で娘が起きだしてきて、泣き出し、寝かしつけながら自分も寝てしまうというわけのわからぬ毎日でした。若いからできたとしかいいようがありません。
ライターの仕事をはじめたのは、あの当時バークレーに事務所のあった太平洋資料ネットワークの今は亡き石朋次さんが、当時「ニューヨーク読売」と呼ばれていた読売新聞全米版のライターの仕事を紹介してくれたからです。初仕事は、1989年のサンフランシスコ大地震の取材でした。今でも、ニューヨークからやってきた編集長とサンフランシスコのダウンタウンで会ったときの会話をはっきりと覚えています。
カフェで編集長が言ったんですよね。「記者というのは特権階級なんですよ」と。はあ。。なんの意味かよくわかりませんでした。確か編集長に、地震の体験をダウンタウンの道行く見知らぬ人に聞いて記事にしてくれ、とか言われて、ええっ、そんな恥ずかしいこと、できませんよ、と私が抵抗したときの答えだったと思います。メデイアは力だ、恥ずかしがることなんかない、堂々と聞けばいい、みたいな感じだったでしょうか。。。最初は、ちょっとすんません、みたいな感じで、通りすがりの人に声をかけてたと思います。そのうちだんだん図太くなっていき、もちろん今では、何も怖いものなし、にまで成長しました。
大学院を3年かかって終了したあとは、1991年4月から日米時事新聞でパートタイムの記者として働きはじめました。日本語教師業は影がうすれていきます。見知らぬ人間にあつかましくも声をかける生業がよっぽど性にあっていたのでしょう。日系社会やアジア系社会に顔をつっこみはじめ、今から思えばけっこう"暴れてた"かなあ。。やっとアメリカで自分の位置が見え始めたということだったと思います。
1987年1月 サンフランシスコ日米時事新聞懸賞随筆
1988年10月より、(株)アルク社発行月刊誌「日本語」に、日本語教育関係記事を掲載
(特別寄稿「アメリカにおける日本語教育の社会的側面」1992年2月)
1989年6月より、ニューヨーク読売新聞にアメリカ西海岸関連記事を掲載
(1990年3月より、1年間「ニューヨーク読売living in the USA」に「チャレンジするシスコの女性たち」を連載
1989年8月 旭化成工業(株)懸賞随筆佳作入選
1990年5月 "Myth of Unity: The Problem of Monolinguallity
in Japan" in Asia, the undergraduate journal of Asian Studies, University
of California, Berkeley (accepted for publication)
1991年4月より、日米時事新聞にサンフランシスコの日系・アジア系アメリカ人コミュニテイ関係記事を掲載
(「石川好の10ドル運動を考えるー広がりと問題点」「カラオケストーリー」「インタビュー・ズームイン」など)
1991年4月「Miss Saigon-Tired Stereotype」 San Francisco Chronicle
1991年8月より、週刊「朝日ジャーナル」(朝日新聞社)にアメリカ関係記事を掲載
(「国際結婚 1991年8月」「代理母 1991年10月」「アジア系男性カレンダー 1991年11月」「日本人エイズ患者 1991年12月」「ゲイ達の国際連帯 1992年2月」「国際養子 1992年3月」)
1991年10月「出生率を考える」産経新聞「正論」佳作入選
1991年12月「Unfortunate Slant on teaching Japanese in the US」
SF Chronicle
1992年1月「Appeal to Asian American-Japanese Version of Miss Saigon」北米毎日新聞Asian Week 羅府新報新聞
1992年2月「日本女性の国際結婚―アメリカで生きるアジア女性の視点から」日米女性センター発行「日米女性ジャーナル」第11号
1992年5月「石川好の10ドル運動批判」朝日新聞衛星版
1992年5月「Karaoke-Technology finds a heart 」 San Francisco Examiner
1992年8月「ミス・サイゴンの犯罪性」フェミニストジャーナル「Fifty Fifty」
1992年8月「Asian Identity」 隔月誌Transpacific
1992年8月「$10 Campaign」 日米時事新聞
1992年9月「アメリカの日本女性―日本人レズビアンとの出会い」日本全国地方紙