3) サウスダコタ時代 (1992・8−1999・7)

 

7年過ごしたサウスダコタをやっと離れることができた頃、よく言ってました、サウスダコタは地獄のような場所だったと。あれから6年がたって、やっとサウスダコタにも「地獄」以外の形容詞をつけられるような気がしないでもないですが、でもそれが何かは今の私にはまだわかりません。配偶者が博士論文完成を残しただけで大学院を終えて見つけた最初の仕事でした。仕事があればどこへでも行かなければならなかったのです。

 

サウスダコターアメリカ人でもどこにあるか知らないようなところです。「マウントラシュモア」がある、と言えば、ああ、という声は返ってくるものの、それがどこかはあまり知られてません。サンフランシスコで記者・ライターとして仕事が面白くなっていた私には、引越しは苦痛以外の何ものでもありませんでした。一人ベイエリアに残れるものなら、と思いましたけど、パートの新聞記者で稼げるお金では生活できないし、何よりも娘がまだ5歳でした。娘を育てるのが一番大事、書くのはどこででもできるから、と自分に言い聞かせて、引越したのです。「もったいなあ」と言ってくれた人もいたし、論争した著名人は陰で、「あほは大きな屁をして、田舎にひっこむ」とか言ってたようです。

 

家の前を車が通れば、誰かが来たのかな、と窓に駆け寄るような生活でした。娘は学校に通いはじめ、友達もでき、自分の世界をもちはじめるけれど、私には何にもありませんでした。家の中だけが自分の世界でした。窓の外には、退屈な時間と空間だけが際限もなく横たわっていました。気分のいい時はいいけれど、苦しいときは。。。地獄でした。もうこんな生活はいやだ、と、極寒の冬の夜、Tシャツ一枚で、外を歩いたこともあります。もう死んだほうがましだ、と思ったのです。

 

今、履歴書をながめていると、その地獄のサウスダコタでの書き物が一番多いのです。生まれてはじめての田舎生活、内陸部のアメリカ文化社会、インデイアン問題、バブルがはじける直前の日本人たち、と、サウスダコタで見聞したことはかけがえのない私の血と肉になりました。カリフォルニアだけがアメリカではなかったのです。あの"地獄"を超えた今の私は一皮むけたと自分でも思います。サウスダコタに行ってよかったのかもしれません。やっとそう思えるようになりました。

 

でもやっぱり、デンバー空港には2度と行きたくないなあ。サウスダコタ州ラピッドシテイは、デンバーからまっすぐ北へ、20人乗りのプロペラ機で1時間ほど地の大海を飛んだところにあります。デンバーで、おなかの突き出た恰幅のいい身体に、カウボーイシャツとカウボーイハット、カウボーイブーツにシルバーの大きなバックルを見ると、絶望的な気分がよみがえってきそう。。デンバー空港のロビーは、私にとって、文明と非文明の境界点だったのです。

 

1992年 10月から、読売アメリカ紙(ニューヨーク)に「インデイアンの世界―サウスダコタから」を6回連載

 

1992年 10月から、サンフランシスコ日米時事新聞に「サウスダコタ便り」を連載(1995年6月まで)

 

1992 11月 「Japanese Rotarians   Rapid City Journal

 

1993年 1月 「大統領選に見る米国の女性運動」社会新報

 

1993月 「Asian Men」 隔月誌 Transpacific

 

1993月 「Derogatory Stereotypes  Rapid City Journal

 

1993年 2月 「インデイアン社会に見るミスコンテストの意義」日米女性センター  発行「日米女性ジャーナル」第13号

 

1993年 4月 「サウスダコタと日本のつながり」朝日新聞衛星版

 

1993年 6月 「神の国の中絶問題」 フェミニストジャーナル「Fifty Fifty」

 

1993年 9月 第12回毎日21世紀賞「人間と言葉」(最終選考に残る、「ハワイ報知」1994年1月1日掲載)

 

1994年 2月 「少女たちにフェミニズムを」フェミニストジャーナル「Fifty Fifty」

 

1994年 2月 「アメリカの歌が聞えますかーある日米関係評論家の実像」日米時事新聞

 

1994年 6月 「日米関係を考える」 産経新聞「正論」第2席入選

 

1994 11月 「Are We Hearing Miss Tottori Rapid City Journal

 

1995年 2月 「家庭内暴力―インデイアン伝統社会に学ぶ」フェミニストジャーナル「Fifty Fifty」

 

1995年 5月 「父の謝罪」近代文芸社編単行本「お父さんごめんなさいー娘から父への手紙」収録

 

1995月 「Japanese in Indian CountryIndian Country Today

 

1995月 「Hiroshima-Survivors suffer still Rapid City Journal

 

1995年 10月 「国際電話は私のライフライン」東洋経済新報社単行本「遠くのあなたに贈る愛しき言葉」収録

 

1995年 12月 「インデイアンの世界からー同性愛とエイズ問題」フェミニストジャーナル「Fifty Fifty」

 

1995年 12月 「インデイアンへの視点に学ぶ」朝日新聞衛星版

 

1996年 1月より、ベネッセコーポレーション(東京)発行の語学教材雑誌レポーター

 

1996月 「Blue Snow-To My Father1996 Laura Bower Van Nuys Creative Writing Contest 位入選

 

1996年 10月 「プレーリーに潮騒を聞きながら」第3回蓮如賞最終候補作品

 

1996年 11月 ノースウエスト航空国際線機内誌「ワールドトラベラー」"ノースバイノースウエストーサウスダコタより」

 

1997年 3月 「蝶の夏」第31回関西文学賞随筆部門奨励作(受賞作なし)入選

 

1997月 「A Place to GrowCrone's Nest, Rhode Island

 

1997年 6月 「文化ニ都物語−サウスダコタ」朝日新聞東京版

 

1997 10月 "Mizuho Takahashi: The Dream of a Japanese Women in South Dakota" South Dakota Humanities Council Silver Anniversary Anthology

 

1997年 8月、12月、1998年4月 コンチネンタル航空国際線機内誌「パシフィカ」"3万フィートのエピソード"

 

1997年 11月より、「アメリカの子供たちは今」アルクKiddy CAT News 10回連載

 

1997年 11月より、「私考―国際結婚なんてするもんじゃないよ」フェミニストジャーナル「Fifty Fifty」

 

1998年 3月  「米国から学ぶべき良い点」USJAPAN BUSINESS NEWS 新年号エッセイコンテスト佳作入選


1998年 6月  「現代オグララ・ラコタ女性たち:キリスト教男性優位文化からの脱却をめざして」 日米女性センター、城西大学国際文化教育センター、パーデュー大学発行「日米女性ジャーナル」第24号


1998年 7月  「アメリカの風―大西部の日本語教育」大修館「英語教育」7月号


1998年 9月  ノースウエスト航空国際線機内誌「ワールドトラベラー」"特集サウスダコタ−マウント・ラシュモアとクレージーホース」


1999年 1月  「"変える"とは何を意味するのか」アジア太平洋資料センター刊「月刊オルタ」1月号


1999年 1月  「いのち」サンフランシスコ北米毎日新聞新春エッセイコンテスト1等入選


1999年 5月  「いのちの形」アジア太平洋資料センター刊「月刊オルタ」5月号

 

 

 

 

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